14系統(新宿駅前―荻窪駅前)









7.349km

新宿駅前-柏木1丁目-成子坂下-本町通2丁目-本町通3丁目-鍋屋横丁-本町通5丁目-
本町通6丁目-高円寺1丁目-高円寺2丁目-蚕糸試験場前-杉並車庫前-馬橋1丁目-
馬橋2丁目-阿佐ヶ谷-杉並区役所前-成宗-天沼-荻窪駅前

S31. 6 

S38.11

青梅街道に秋たけて

 東京の街路樹として、銀座の柳、桜田門外の栃の木、三宅坂のゆりの木などはなかなか風情があるが、最も多いのはプラタナスと銀杏であろう。こんなに排気ガスが多いのに結構生きているのでから、丈夫な樹なのであろう。
 銀杏の葉というのは、秋になってもいつまでも青くて、なかなか黄ばんでくれない。このまま秋を通り越してしまうのだろうかと、人の気持ちをやきもきさせるが、それでも各地に霜の便りが聞ける頃ともなると、日一日と黄色い美しさを見せてくれる。
 青梅街道沿い蚕糸試験場前の銀杏並木も、すっかり色づき、明治44年に建てられた蚕糸試験場前の西洋建築と煉瓦塀との調和が美しい。明日から師走を迎えるというので、青梅街道を、行く車も多く、交通整理に当たるお巡りさんも大童である。背後には、本日限りで姿を消して行く『14』番の都電が、僅かばかりのモールで彩られて、最後の勤めを果たしている姿が痛ましい。
 新宿歌舞伎町そばのガードを潜って、成子坂を下る道は、やがて中野の鍋屋横町を横目でにらみ、高円寺の南を走って、この蚕糸試験場前にさしかかる。さらに道を西に進むと、左に杉並車庫(現在は都バスの車庫)を過ぎ、天沼の陸橋を越せば終点の荻窪駅前に通じる青梅街道である。
 そもそもこの電車線は、西武鉄道会社がその最初の仕事として、明治30年に淀橋〜田無間に鉄道敷設の認可を受けたものだが、諸般の事情でひとまず大正10年8月26日に、淀橋〜荻窪間の開業の運びとなり、その後、新宿駅東口まで延長された。
 戦時中、東京市に委託され、昭和26年から都電に組み入れられた。しかし、昭和38年1月の地下鉄丸の内線の開通や、オリンピックの為に他線に先だっていち早く巣姿を消した。この写真は、車優先の、環状7号線の陸橋工事現場からの眺めである。
 西武軌道株式会社が、大正10年8月26日に淀橋〜荻窪間の電車運転を開業した時に始まる。昔はここを妙法寺口といった。昭和17年2月1日に、東京市に委託され『36』番新宿駅前〜荻窪間となる。昭和26年には『14』番となり、都電杉並線は明治40年の開設、東京の新宿-荻窪間を結び、長く都民の足として親しまれた路面電車であったが、営団地下鉄荻窪線(現在の東京メトロ丸ノ内線)が開業したことにより乗客数が激減、昭和38年12月1日から廃止となった。

 環状号線が青梅街道を跨ぐ所の、まだ工事中の足場から、東の方を撮影する。右側は蚕糸試験場である。両側の銀杏の葉がすっかり黄ばんで、冬の訪れを告げる。
 昭和38年11月30日、晦日のせいか、道行く車も頻く、交通巡査も大童と言った所である。今日をかぎりにで廃止される『14』番の2000形が、荻窪駅まで、最後のお勤めを果たしている風景である。