15系統(高田馬場駅前―茅場町)









9.338km」

高田馬場駅前-戸塚2丁目-面影橋-早稲田-早稲田車庫-関口町-鶴巻町-江戸川橋
-石切橋-東五軒町-大曲-飯田橋-飯田町-九段下-専修大学前-神保町-駿河台下
-小川町-美土代町-神田橋-大手町-丸ノ内1丁目-呉服橋-日本橋-茅場町

S24.12 

S43. 9

安兵衛ゆかりの高田馬場

 長く東京にいる人たちは、高田馬場を「タカタノババ」と発音しているはずなのだが、正式にはどうも「タカダノババ」であるらしい。確か国鉄の駅名表示も「たかだのばば」で、その下を走る地下鉄東西線のホームにも「たかだのばば」と、書かれていたと思う。それでも人々はこのように発音し難いし、発音していない。
 高田馬場駅は、山手線の中では比較的遅く、明治43年9月15日に開設された。都の西北に位し、早稲田大学への下車駅である。今、上に入線してきたのは西武鉄道で、昭和2年からここが始発で所沢の方に通っていたが、戦後、新宿まで伸び、西武新宿線といっている。
 高田馬場を有名にしたのは、何といっても叔父、菅野六左衛門の決闘の助太刀をした堀部安兵衛である。その時、八丁堀でぶらぶらしていた安兵衛に手紙が届き、刻限に間に合うようにと、6キロの道を駈けつけ、途中馬場下の酒屋で5合桝の酒を一気に干し、現場に着くや、ばったばったと18人も斬り倒したといわれている。講談ならともかく、どうヒイキ目に考えても信じられない。実際には3人くらい倒したらしい。
 面影橋から高田馬場に電車が延長されたのは、戦後の昭和24年12月1日の事である。今は、駅前に降り立つと、駅周辺、殊に南口の広場の変わり様と来たらめを見張るが如くである。大きな箱型の、なんでも売っているBIG・BOXが出来一気に話題になった。早稲田大学の校歌のとおり、高田馬場駅は都の西北にあって、1日の利用客は30数万人、全国で第7位だ。今次の大戦で駅周辺は焦土と化したが、早稲田通り沿いには、いち早くバラックが軒を連ねた。高田馬場は読んで字の如く、豊多摩郡高田村の馬場だった。この辺りは水質のよい流れと湧水に恵まれ、、水田のほかに、染物や薬品の工場が早くから建った。
 早稲田通りが6メートルの馬車道から22メートル幅になったのが昭和3年の事、その前年には西武鉄道が久米川から高田馬場駅に乗り入れた。昭和7年に35区の豊島区になってから、早稲田大学や陸軍戸山学校への下車駅という事で発展してきた。
 駅前には広場を新設、F Iビルを始め、高層ビルが建ち並び面目を一新した。地下鉄東西線とのジョイント駅なので、駅そのものは、これでも手狭な感じがしないでもない。高田馬場駅ホームから見える噴水の水飛沫を浴びているのは、力士と裸婦である。この噴水はスズヤ質店のもので、「ポルノ噴水」として知られている。店主は、有閑マダム風の貫禄のある鈴木よしさんで、今年で30周年を迎えた。よくテレビで、大晦日の師走風景に出てくる質屋さんである。この写真の右の方に見える停留所の表示板「高田馬場駅前」は、なぜか、現在私の家に保存してある。
 昭和24年12月1日から、高田馬場駅前まで電車が延長され、『15』番、深川不動〜高田馬場間の運転を見る。その後、昭和40年頃に朝夕の臨時を残して、深川不動から茅場町までに短縮された。この『15』番は昭和43年9月29日から廃止されて、高田馬場駅前の都電は消えた。

トロリーが走る戸塚2丁目

明治通りと早稲田通りの出会う所が、この戸塚2丁目の交差点である。同時に、明治通りを品川駅からやって来た「無軌条電車」つまりトロリーバス102番と、早稲田通りを高田馬場駅まで通っていた『15』番の都電との接点であった。面影橋の専用道路『32』番と分かれた『15』番の電車は、戸塚警察署の前を通ってここまで来ると、90度向きを右に変えて高田馬場駅の前まで行く。ここは別にポイントを右に切るということではないが、まるでポイントを切るが如くに曲がるので、われわれ電車好きには、たまらない場所であった。おまけにトロリーバスが、あのでんでん虫のような角を2本出して、もそもそとやって来るのだから嬉しくなる。
 このトロリーバスは、昭和30年6月1日に池袋駅〜千駄ケ谷が開通したのに始まり、12月27日には渋谷駅まで延長、昭和31年5月21日には、品川駅まで完成した。電車とバスとの長所を兼ね備えたつもりで発足したのであったが、結局は両者の短所を集めたような恰好になって余り親しまれなかった。実際に乗ってみると、ゴロゴロした間接的な音がして、靴の外から足の裏をかいているような、まだるっこくて、何処かスピード感がなくて物足りなかった。昭和42年12月10日からの都電の第1次廃止と共に品川駅〜渋谷間が廃止となり、昭和43年3月31日に、ここを通るトロリーバスは全廃された。
 戸塚という地名は、北条氏の勢力時代に既に登録されている。始め富塚と書いていたらしく、早稲田、高田、大久保辺りを含めた広い地域の名であった。明治になってからは、上戸塚、下戸塚、源兵衛村、諏訪村などを合併して戸塚村となった。この戸塚2丁目の辺りは、かっての源兵衛村があったところだ。昭和50年6月1日からは、西早稲田3丁目なんて、へんてこりんな、名前になってしまった。西とか東とかの漫然とした名前を、大きな交差点につけるべきではない。
 トロリーバス(無軌条電車)は、昭和30年6月1日に102系統、池袋駅〜千駄ケ谷4丁目が開通して、戸塚2丁目の明治通り上を走る。(15』番は昭和43年9月29ひ、トロリーバス102系統は昭和43年3月31日から廃止された。

神楽河岸の酒問屋

 中央線に乗って四谷からお茶の水に向って行くと、左手に外濠が続いて、ボートを浮かべるものや釣り糸を垂れる姿などが見える。早春の頃ともなると土手の菜の花の黄色が鮮やかで、都内でも珍しい所だ。その外濠に沿って走っている電車は、むかしの外濠線で、この伝統ある線は、『3』番が品川駅から飯田橋まで通っていた。もう少しで終点の飯田橋の5叉路に指しかかろうとする所なのに、車の渋滞の真只中で立ち往生だ。方向板は折返すときに直さず、大抵このように予め直してしまう。電車を待つ人は、今度は折返して「品川駅」まで行くのだなということがわかるようになっていた。ここで目立つ建物は、白土蔵と黒土蔵とを持つ酒問屋の升本総本店で、江戸時代からの老舗である。ここ牛込揚場町には、神田川を利用して諸国からの荷を陸揚げした船宿や問屋などが沢山あり、この辺りの河岸を神楽河岸といった。
 明治37年の「新撰東京名所図会」の「牛込区之部」の巻一に「此地の東は河岸通なれば。茗荷屋、丸屋などいへる船宿あり。1番地には油問屋の小野田。3番地には東京火災保険株式会社の支店。4番地には酒問屋の升本喜平衛。9番地には石鹸製造業の安永鐵造。20番地には高陽館といへる旅人宿あり。而して升本家最も盛大して。其の本宅も同町にありて。庭園など意匠を凝らしたるものにて。稲荷社なども見ゆ」と、出ているから、升本総本店は都内でも有数の老舗であることがわかる。
 都電の沿線に土蔵があったところは、そんなに多くない。麹町4丁目の質屋大和屋、本郷3丁目冠質屋、音羽1丁目の土蔵、中目黒終点の土蔵、根岸の松本小間物店、深川平野町の越前屋酒店の土蔵など、数えるほどしかない。今や、その半分は取り壊されて見ることも出来ない。最近、飯田橋の外濠が埋め立てられて、またまた「水」面積が減った。残念なことである。
 外濠線の東京電気鉄道会社によって、本郷元町から富士見坂を下りて神楽坂までが明治38年5月12日に開通した。続いて、3社合同の東京鉄道時代の明治40年11月28日に、大曲を経て江戸川葉科手が完成して、飯田橋は乗換え地点となる。一方、大正元年12月28日、飯田橋から焼餅坂を下って牛込柳町までが開通したことにより、重要地点となった。大正3年には、『10』番、江東橋〜江戸川橋、『9』番、外濠線の循環線、それに新宿からの『3』番、新宿〜牛込〜万世橋間が通る。
 昭和初期には、5年まで『18』番、角筈〜飯田橋〜万世橋、(19)番、早稲田〜大手町〜日本橋〜洲崎、『22』番、若松町〜お茶の水〜神田橋〜新橋が飯田橋を通っていたが、翌6年から『18』番が『13』番に、『19』番が『14』番に、そして(22)番は改正されて『32』番、飯田橋〜虎の門〜新橋〜三原橋と、『33』番、飯田橋〜虎の門〜札の辻間となった。昭和15年には『32』番は廃止となった。
 戦後は、『15』番、高田馬場駅〜茅場町、『13』番、新宿駅〜水天宮、『3』番、飯田橋〜品川駅となった。『3』番は昭和42年12月10日、『15』番は昭和43年9月29日に廃止、『13』番は昭和43年3月31日岩本町までに短縮の後、昭和45年3月27日から廃止された。
 高田馬場から来た『15』番の電車は、江戸川橋を過ぎると、華水橋、服部橋、古川橋、石切橋、西江戸川橋、小桜橋そして、この中之橋と続き、川が90度南折りする上の白鳥橋、降慶橋、船河原橋で外濠に注ぐ。
 石切橋から降慶橋へかけては、大正時代まで両岸の桜並木で有名だった。これは東五軒町辺りの、のどかな眺めである。

本屋街の三省堂

 近頃では都内の各地に大型書店が誕生して、近間で本を入手できるが、以前は、本を買うとなると必ず神田神保町にやって来た。それも、この三省堂か、裏のすずらん通りの東京堂で本を探し、そこになければ諦めるというくらいのものだった。
 駿河台下の停留所の真前にあった。決してスマートではないが、継ぎ足し継ぎ足しで大きくなった温か味のある三階建ての三省堂書店の建物は、学校を卒業してもそこを通る度に懐かしく眺められた。ことに春の新学期ともなると、真新しい制服に身を包んで参考書アサリをやっている学生に、昔の自分の姿を見る思いがする。また、以前、三省堂で使っていた、都内の学校の校章を散ばめた包装紙は大変に人気だあった。あれは昭和7年から使い始めたという。私のように中学・高校・大学と、すべて都内で終えた者は、自分の母校の校章が三つも入っていたことになる。
 三省堂は、明治14年に亀井忠一が創業したから、もう1世紀を超える。昭和56年4月には、新しく出来たビルで百年祭を祝った。三省堂の三省は「さんしょう」か「さんせい」か、今は、半々に読まれているらしい。論語の学而篇の中の「吾日三度省吾身」から社名をとっているので、漢文の授業の盛んだった戦前は、大部分の人が「さんせい」と正しく読めたのだろう。幕末の洋学者、信州松代藩の佐久間象山の塾も「三省塾」といったと思う。
 駿河台下は昭和19年までは、十文字に電車が交わる交差点であった。南北の方に、お茶の水駅前から下りて来た電車がここで交差し、錦町河岸まで行っていた。これは明治の外濠線の線路で、伝統ある系統だった。東西の方向には、『10』番、『12』番、『15』番が通っていた。安全地帯の上にこんなに乗客が待っている。電車がはずされてから、この人達は何を利用しているのであろうか。
 明治37年12月7日、東京市街鉄道線の小川町〜九段下間が開通し、駿河台下に伝写が通る。そのいちにちの遅れで12月8日に東京電気鉄道(外濠線)の、土橋〜御茶ノ水間に電車が通り、早くも交差点となった。当初は小川町を起点に江戸川行と、外濠線は赤坂見附を起点に環状線として走った。大正3年には『3』番、新宿〜九段上野、九段両国行、『6』番、巣鴨車庫前〜薩摩原(三田)、『10』番、江東橋〜江戸川橋と、『9』番、外濠線が赤坂見附を起点として一周する。

転轍手泣かせの小川町

 日比谷のほうから北に進んで、神田橋を渡り、右手に茶褐色のスクラッチタイルのYMCAを眺めると、まもなく小川町の交差転に出る。「おがわちょう」ではなく「おがわまち」と、正しく呼んでほしい。
 昭和55年3月都営地下鉄新宿線が開通して、小川町駅を作ってくれたお陰で、「おがわまち」と読んでくれる人とが増えて嬉しい。
 小川町の交差点はレールが十文字に交わることは無く、三角形をした特殊な交差点である。都内では、港区の古川橋の交差点と全く同じレールの敷かれ方で、三方から来る電車のいずれもが、ポイントの選別を必要としたので、転轍手泣かせの交差点であった。10番と12番の電車が、東西の方向に一直線で通過し、東の方から25番と37番が左折して日比谷方面へ向い、西の方からは15番が右折して大手町へ向った。更に、南からは25番と37番が右折、15番が左折するので、信号塔の上で電動スイッチを入れる転轍手は大童であった。前方ばかり見ていられないので、目の前に大きなバックミラーがついていた。
 写真は、15番が左折する最中ですが、背後の信号塔が印象的です。この上に乗って操作する転轍手は、「猛暑の夏はコンクリートで蒸され、凍てつく冬の夜など、交代員が来ないと、お手洗いにも行けないのが辛かった」という話しも、よく聞きました。都電が道路を右折する所には必ずといっていいくらい設置されていました。
 時たま、出前の「おかもち」を下げて信号塔の梯子(はしご)を登って行くのを見たことがある。最終電車には、この日の最後の勤めを終えた持ち転轍手を乗せて車庫まで帰るので、電車の乗客は小川町で暫く待つのが常だった。
 電車の左方の古いビルは、関東大震災後に出来た共同店舗の小川町ビルで、九段下の中根速記者のあるビルと同じ。
 当時は、お店によっては、共同ビルの中に入るのを潔しとしなかったというが、今なら争って入るのだが。
 緑色の電車の街鉄線が明治36年12月29日に、神田橋〜両国間を開通し、電車は小川町を右折した。一方、同じ街鉄線の小川町〜九段下間は明示37年12月7日に開通、乗り換え点となる。
 当初は日比谷公園から神田両国行がここを通り、一方、小川町を起点として江戸川橋行とが通る。
 大正3年時には、6番巣鴨車庫前〜薩摩原(三田)、2番渋谷駅〜九段、両国と九段、上野、3番新宿〜九段、両国と九段、上野、10番江東橋〜江戸川橋が小川町に集まっていた。
 昭和初期の5年までは、3番三田〜吾妻橋西詰、15番渋谷駅〜上野、17番新宿駅〜両国駅前、19番早稲田〜洲崎、33番浅草駅〜日比谷、37番錦糸堀〜日比谷、間小川町に来る。
 翌6年には2番三田〜浅草駅、10番渋谷駅〜須田町、12番新宿駅〜両国駅前、14番早稲田〜洲崎、29番錦糸堀〜日比谷間となる。
 戦後は10番渋谷駅〜須田町、12番新宿駅〜両国駅前、15番高田馬場駅〜茅場町、25番西荒川〜日比谷、37番三田〜千駄木2丁目間となった。
 37番は昭和42年12月10日から廃止、25番は43年3月31日短縮、同年9月29日から10番、15番らと廃止、45年3月27日から12番が廃止となり、小川町から電車は消えた。

美土代町のYMCA

 小川町の交差点から道を南に取ると、やがて茶褐色のスクラッチ・タイルのビルが見えてくる。YMCA本館である。ここは以前、神田美土代町3丁目3番地といった。明治13年5月8日、京橋の新肴町にあった日本基督一致京橋教会で、日本で最初のキリスト教青年会が生れた。YMCAは、Young Men's Christian Associationの4つの頭文字を取ったものである。この発会式には小崎弘道、植村正久、田村直臣、吉田信好、岡田松生。井深梶之助、湯浅治郎、神田乃武、天良勇次郎、平岩愃保、吉岡弘毅、それにフルベッキも加わった。新肴町のこの場所は、今日の銀座2丁目の並木通りに面した東京電力の営業所辺りだと推定できる。YMCAはその後、明治23年に神田仲猿楽町に一時移り、そして、その年に、美土代町の現在地を入手して会館の工事に取りかかった。
 設計は、英国人、ジョサイア・コンドルである。そして明治27年に三階建ての美しい煉瓦造りが完成した。その時の献堂式の司会は、江原素六が当たった。江原素六は麻布中学の創立者でもあった。この堂々としたYMCAの会館は、たちまち有名になり、東京市内では知らぬ人なしの感があった。この会館は単にYMCAの会館としてだけでなく、東京市民の会館としても活用され、ここで行われた公園や集会は枚挙に遑がなかった。
 しかし、大正12年9月1日午前11時58分44秒、この瞬間が、関東大震災の始まりで、東京の65%の人が家を失い、YMCAとてその例外ではなかった。そして、また、復興を目指し新たな会館の再建が行われた。この新しい会館もまた、当代一流の建築家、曽禰・中條建築事務所の手によって設計された。館内には、結婚式場、室内プール、体育館、英語学校などがあって、ここに出入する若人は多い。
 明治36年12月29日、東京市街鉄道線が神田橋から両国まで開通して電車が通る。当初は日比谷公園を起点として神田両国行が走る。

神田橋

 神田橋に電車が通ったのは早く、明治36年9月15日には、すでに街鉄線の緑色の電車が、三田の方から神田橋まで開通した。
 『東京地理教育 電車唱歌』明治38年刊
1・玉の宮居は丸の内     2・左に宮城おがみつつ    3・渡るも早し神田橋
  近き日比谷に集まれる     東京府庁を右に見て      錦町より小川町
  電車の道は十文字       馬場先門や和田倉門      乗換えしげき須田町や
  まず上野へと遊ばんか     大手町には内務省       昌平橋をわたりゆく
と歌われている。
 神田橋には以前、神田橋御門があった。ここを流れる川は、飯田橋から俎板(まないた)橋、一ツ橋、錦橋などの下を流れ、やがて一石橋からは日本橋川となって隅田川に注いだ。古くは平川といい、徳川氏入府前からの重要な地点であった。この川の上と下に錦町河岸、鎌倉河岸という河岸の名がついていることからも解かるように、昔から諸国の荷を、この平川を利用して陸揚げしていた。
 今でも材木屋、砂利屋、タイル屋などが、この流域に多い。また、現在は台東区元浅草1丁目(浅草七軒町)にある白鴎高校(府立第1高女)が、神田橋の西にあった。
 朝夕各2台ずつの数少ない2番三田〜東洋大学前。朝の神田橋の交差点で神田警察の交通巡査が、手信号の訓練をしていた。若い巡査のそばにベテランの巡査が立って、交通整理の要領を特訓中です。35、6年前には、こんな風景も見られたのですね。
 この神田橋の交差点は、南北の15番、25番、37番に東西の17番が交差していたほかに、2番と35番が曲がっていた。なかなか複雑な交差点で、最後まで信号塔に転轍(てんてつ)手が乗っていた。自動式ではさばき切れるものではなかった。
 緑の電車の東京市街鉄道会社線が、明治36年9月15日に数寄屋橋外から神田橋まで開通し、同年12月29日には神田橋から両国まで延長された。一方、外濠線の東京電気鉄道会社線の土橋〜御茶ノ水間が、明治37年12月8日に開通した。神田橋は街鉄と外濠線は赤坂見附を起点に外濠にそって一周した。
 大正3年には、6番巣鴨〜薩摩原(三田)、9番の外濠線が交差する。
 昭和初期5年までは、3番三田〜吾妻橋西詰、19番早稲田〜洲崎、21番大塚〜新橋、22番若松町〜新橋、24番下板橋〜日比谷、33番浅草駅〜日比谷、37番錦糸掘〜日比谷の7系統が神田橋に集まっていた。翌6年には2番三田〜浅草駅、14番早稲田〜洲崎、18番下板橋〜日比谷、29糸掘〜日比谷の4系統に整理された。
 戦後は、2番三田〜東洋大学前、18番志村坂上〜神田橋、35番巣鴨〜西新橋1丁目、37番三田〜千駄木2丁目、15番高田馬場駅〜茅場町、25番西荒川〜日比谷、17番池袋駅〜数寄屋橋の7系統がここに集中していた。昭和42年9月1日から18番、2番、37番は昭和42年12月10から、35番は43年2月25日から廃止となった。引き続いて同年3月31日に17番、25番は短縮となり、ここからの都電は消えた。

城の玄関大手門

 何処の城でも、大手門からの眺めが最高だといわれる。大手門はその城にとっての表門であり、玄関口である。築城の際には、まず天守台から決めてかかり、その位置が定まれば、角櫓、渡廊、濠と門などの配置や規模が、それぞれの縄張り設計によって位置付けられる。 江戸城の天守台は、大手門から見てやや右上、つまり西北の丘の上にあって、そこに五層の天守閣が聳(そび)えていたことが、近年発見された「江戸図屏風」によてわかる。
 明暦の大火で、惜しくも天守閣は炎上し、再建の途上再び落雷で焼失した。以後、ついに再建されることがなかった。南の方に三層の富士見櫓が残っており、二重橋の上の多門橋櫓と共に、かっての巨城の面影が偲ばれる。
 大手門は、慶長年間に、城作りの名人藤堂高虎が縄張りをして、元和年間、伊達政宗が工事一切を受け持ったというより受け持たされたといった方が適当である。豊島豊彰氏によれば、「大手門工事に要した人員は延べ420,3000余人、黄金2,676枚といわれる」というほどの大きい工事である。当時、家康と勢力相拮抗していた仙台侯も、これでは財力を大分削減された結果となった。この大手門は、もちろん右折型の桝型御門である。
 この写真を撮影した時には、門も工事中だし、大手町も千代田線の地下鉄の工事中で、信号塔が取り除かれ、右側の日本鋼管ビルの前にあるように、仮設の信号塔の上で、ポイントマンがレールを操作していた。
 江戸の道路計画は、日本橋を中心として全国に放射状に街道が散っていたと考えるべきであるが、直接日本橋から出ていたのは南北の道でむしろ各方面へは、江戸城の周囲の各御門からの道が四方に放射されていた。
 半蔵門の甲州口、桜田門の芝口、常盤橋門の朝草口などである。この大手門は、昔は門の大橋があったことから大橋口といわれ、じょうかの商業センターに通ずる口であった。全国各地の大手門とか大手という町名の所は、大抵そうである。

日本橋高島屋

 日本橋を越えると、直ぐ左側に蚊帳と布団で有名な西川があり、その並びの角は東急日本橋店(元の白木屋)も閉店し、その向いに、都電があった頃には瓦葺の漆屋の黒江屋があった。その並びに日本橋の西南隅の柳屋、そして洋書や舶来物で有名な丸善がある。何れも江戸や明治からの老舗である。丸善の斜め向いに、いつも「丸高」の紅白一対の旗を出しているデパートが高島屋である。
 高島屋の東京店は、通3丁目から京橋に向った所に初めて店を出した。この日本橋店は昭和6年に建てられたものだから、70年にもなる。京都の四条河原町に京都高島屋があるが、ここに入って驚いたことは「ここは日本橋の高島屋にいるみたいだ」と錯覚に陥るくらい、売り場の配置と硝子ケースが似ていることだ。ネクタイ売り場の場所といい、カバン売り場の場所といい、日本橋店とそっくりである。京都にいても東京にいるような、アットホームな感じを持たせる辺りは流石だ。また、「このお店の陳列ケースの高さがわれわれお客には最も見易い高さだ」という評判があって、確かにその点でも京都と日本橋とでは同じであった。
 そもそも高島屋は、大阪市の難波にある高島屋が本店である。初代の飯田儀兵衛は近江の国高島郡の出身で、文政4年に、京都の烏丸に出身地の名を取って高島屋という米屋を開いた。そして文政11年、長女おひでの婿養子として迎えたのが新七で、この人は同じく京都の烏丸で呉服屋に修行していた。高島屋に婿入りしてからは、商売熱心で、店も大きくなった。この飯田新七が事実上の開祖とされている。高島屋の向うに建築中の建物は16階建のDICビルである。
 明治36年11月25日、新橋〜上野間に東京電車鉄道線が開通したときに始まる。一方、明示43年5月4日に茅場町〜呉服橋間が開通して交差点となる。
 大正3年には1番品川〜上野〜浅草と、4番大手町〜洲崎間が交差する。

株のメッカ茅場町

 築地の方から桜橋を越えてきた9番の電車が、今、茅場町を右折しようとしている。渋谷からの最も伝統ある系統は「築地・両国行」である。
 戦前は、この系統の電車は茅場町で右折しないで直進し、証券取引所のたもとの鎧橋(よろいばし)から蠣殻町を経て水天宮を左折、今度は人形町を右折して、浜町河岸を通って両国橋の西のたもとで折返していた。
 鎧橋は、現在の北品川の八っ山鉄橋と同じく、鋼鉄のものものしい鉄橋であったが、マンガンの含有量が多いとかで、戦時中献納されてしまった。
 戦いは終わっても、ふぬけになった鎧橋では電車を渡すのも危険だということで、右折して、また、すぐ渋沢倉庫のところを左折して、茅場橋を渡って蠣殻町に出るようになってしまった。
 茅場町は、永代通りと新大橋通りが交差する、ビジネスセンターであるが、いにしえは茅生い茂げる岸辺であったという。この電車の右後ろには、日本橋辺りで最も古い明治6年開校の阪本小学校と、明治初年からある第一大区の消防分署があり、第一分署として知られている。
 鎧橋は、源義家が奥州攻めの時、ここで下総に渡ろうとしたが暴風のために船が出ず、鎧一領を海中に投じて龍神に手向けた所、たちまち波風が鎮まった。そこで「鎧の渡し」といわれ、明治5年に架橋した時、鎧橋といった。
 義家戦捷して帰路、加護を謝して自らの兜をこの地に埋めたので兜塚ができ、後に兜町の名の起こりとなった。
 証券取引所の斜め前の、茅場町の、お薬師様の隣りは日枝神社のお旅所で、以前はご本社の鳳輦(ほうれん)が一夜をここで明かされた。
 茅場町の交差点かどの、緑色の円い屋根のある白壁の交番も、左かどの信号塔も今はない。
 東京市街鉄道会社線が、明治37年5月15日に数寄屋橋(日本橋)から両国までと、同日、茅場町〜深川間をも開通させたときもに始まる。最初から乗換え地点であったが、続いて三社合同の東京鉄道時代の明治43年5月4日には、茅場町〜呉服橋なで開通した。
 当初は渋谷、新宿からの築地・両国行が、茅場町から真直ぐ鎧橋を渡って水天宮を左折、人形町を右折して、両国橋の西詰めの所で終点となっていた。
 茅場町から深川の亀住町までは折返し運転であった。大正3年時には、2番中渋谷ステーション前〜築地・両国、3番新宿〜築地・両国、4番大手町〜洲崎と、同じく4番大手町〜押上橋までが茅場町を通る。
 昭和初期の5年までは、14番渋谷駅〜築地両国、19番早稲田〜洲崎、35番柳島〜大手町、39番錦糸堀〜東京駅が茅場町に来た系統番号であった。
 戦後は、9番渋谷駅〜浜町中の橋、36番築地〜錦糸町駅、15番高田馬場駅〜茅場町、28番錦糸町駅〜都庁前、38番日本橋〜砂町〜錦糸堀となった。
 9番は、昭和42年12月10日から路線変更でなくなり、15番は43年9月29日、36番は46年3月18日、28番、38番は47年11月12日から廃止された。