13系統(新宿駅前―水天宮前)










9.301km

新宿駅前-角箸-四谷三光町-新田裏-大久保車庫-東大久保-河田町-若松町-牛込柳町
-山伏町-牛込北町-神楽坂-筑土八幡-飯田橋-小石川橋-水道橋-順天堂病院前-御茶ノ水
-松住町-万世橋-秋葉原駅西口-秋葉原駅東口-岩本町-元岩井町-小伝馬町-堀留町
-人形町-水天宮前

T 3. 5 

S45.3

新宿・角筈・歌舞伎町

 新宿通りと明治通りの角地に建つ伊勢丹は、空襲を免れたために、戦後米軍に接収されてしまったが、地続きの都立新宿病院と、都電新宿車庫とは戦火を蒙って焦土と化した。

 昭和22年3月の毎日新聞に「きのうのゆめ・銀メシ横丁」という見出しで、新宿駅東側の露天街200軒余、主食販売のかどで10日間営業停止。遅配にあえぐ都民を尻目にパリパリの銀メシの天丼、親子丼、握りずしを販売していた・・・・・・・・・・。という記事がある。

 『11』番、『12』番は、伊勢丹前を通り新宿駅前が始終点だった。昭和23年12月24日に、この間が廃止され、すべての電車が角筈に変わった。元来『12』番を管理していた大久保車庫に、新宿車庫関係が同居する形で都電廃止まで続いた。「都電新始終点の向側は区画正しい新市街が歌舞伎町、歌舞伎新町の呼称も耳新しく、さながら往年満州各地に営んだ日本人都市のように突如として現出すれば、それに遅れをとらじとばかり旧新宿始終点二幸に平行すり大小幾多の横町は今や道路の修築にいそがしい」と奥野信太郎は『随筆東京』でいっている。

 あれから50年、不夜城新宿歌舞伎町は若者のメッカとなった。角筈は歌舞伎町側のビル化が幾分か早く、山手線のガード下の角地から『11』番、『12』番、『13』番の3系統が勢揃いした場面を撮るには大変苦労した。

新宿新田裏面影いずこ

 現在残る荒川線の車庫に似て、大久保車庫は、専用軌道の途中にあった。昭和10年代、小学校の遠足で早朝の新宿駅集合となると、大久保車庫の前を通り、靖国通りに出ようとする角筈で電車を下りたことを想い出す。戦後はその『13』番は、いち早く新田裏で左折して四谷三光町を右に曲がって新終点に向い、『11』番、『12』番は、新田裏を直進して、今、緑道公園になっている専用軌道(昔の『13』番の道)から、靖国通りへと出て行った。

 新田裏辺りは、黄昏どきともなると、美容院から出てきた夜の蝶が、薄暗い巷に白い羽根をひらひらとさせながら、紅灯の横丁に消えて行く。見上げる空には、赤だの黄だの、緑だの青だのの横文字のネオンがまたたいて人を呼ぶ。傍にある専用軌道を、電車はゆっくりユックリ通り過ぎて行った。

 「こんなに空が大きかったんですねぇ。うちの店の前で電車が曲がってたんですよ。もうここで35年もここで太鼓焼きを売ってきたけど、そのうち、明治通リが広がって、この店が道路になっちゃうから、あと何年ここにいられるかなあ・・・・・・・・」とは、「すずき」の若奥さんの話。


柳町に下る焼餅坂

 東京の小学校の遠足は、1年生、2年生のうちは、植物園、上野動物園、芝公園、飛鳥山公園といった近間であるが、4年生以上になると、井の頭公園とか、聖蹟桜ヶ丘とか高尾山などに行く事が多かった。

 戦前は今日のように校門から貸し切りバスというわけにはいかず、早朝、新宿駅とか池袋駅とか上野駅とかに集合をかけられた。近所の友達と誘い合わせて、朝6時ごろの電車に乗って駅前広場に集合する。こういうことが一度、二度と加わることによって、小学校上級生の頃から、東京の地理とか市電の系統とかが頭に入っていくので、現地で修学すること以上に、それまでの経過でも大変勉強になった。

 本郷からは、松住町(外神田2丁目)で角筈行に乗換えれ来ると、神楽坂、岩戸町の方を通って山伏町を過ぎ、やがて、この焼餅坂にさしかかる。「続江戸砂子」によれば、昔、この坂の途中に焼餅を売る店があったのでその名があり、別名を赤根坂という。田山花袋が「東京30年」を著した頃には、焼餅ならぬ焼芋屋があった。

 「例の山伏町の通り、そこには未だ焼芋屋がある。旨い、胡麻の入った、近所でも評判なその焼芋。その焼芋屋は、爺さん婆さんが、かせぎ人で、金を沢山貯めたと」いうことであったとある 坂を下りきった所には牛込柳町の商店街があり、山手の中の下町といった感じがする。西の方にも丘があって、その窪地にある柳町の辺りは、自動車の排気ガスによる一酸化炭素が、他の地区に比べて極度に濃く検出され、ここの信号を余り渋滞させないように工夫したり、いろいろと問題になった。これを機に、車の排気ガスが問題になって規制が少しは厳しくなった。

 しかし、一台一台は規制の範囲ぎりぎりであっても何台もが渋滞していたら、辺りの住民はたまったものではない。げたに代わりの1人で1台を動かしているマイカー族は、そのことを考えて欲しい。

 大正元年12月28日に飯田橋〜焼餅坂、大正年6月6日に焼餅坂〜若松町が、そして同年12月29日に若松町から東大久保まで開通した。大正12年には『15』番、新宿角筈〜緑町5丁目がここを通る。

 昭和に入って5年までは、『18』番角筈〜万世橋、『22』番、若松町〜新橋間が通る。翌6年の改正で、『18』番は『13』番、角筈〜万世橋に変更、『22』番は廃止された。

 戦後もこの線は『13』番で昭和33年4月25日に万世橋〜秋葉原東口が延長されて、新宿〜水天宮間となる。『13』番は昭和43年3月31日に岩本町までに短縮、昭和45年3月27日から廃止となった。

神楽河岸の酒問屋

 中央線に乗って四谷からお茶の水に向って行くと、左手に外濠が続いて、ボートを浮かべるものや釣り糸を垂れる姿などが見える。早春の頃ともなると土手の菜の花の黄色が鮮やかで、都内でも珍しい所だ。

 その外濠に沿って走っている電車は、むかしの外濠線で、この伝統ある線は、『3』番が品川駅から飯田橋まで通っていた。もう少しで終点の飯田橋の5叉路に指しかかろうとする所なのに、車の渋滞の真只中で立ち往生だ。方向板は折返すときに直さず、大抵このように予め直してしまう。電車を待つ人は、今度は折返して「品川駅」まで行くのだなということがわかるようになっていた。ここで目立つ建物は、白土蔵と黒土蔵とを持つ酒問屋の升本総本店で、江戸時代からの老舗である。ここ牛込揚場町には、神田川を利用して諸国からの荷を陸揚げした船宿や問屋などが沢山あり、この辺りの河岸を神楽河岸といった。

 明治37年の「新撰東京名所図会」の「牛込区之部」の巻一に「此地の東は河岸通なれば。茗荷屋、丸屋などいへる船宿あり。1番地には油問屋の小野田。3番地には東京火災保険株式会社の支店。4番地には酒問屋の升本喜平衛。9番地には石鹸製造業の安永鐵造。20番地には高陽館といへる旅人宿あり。而して升本家最も盛大して。其の本宅も同町にありて。庭園など意匠を凝らしたるものにて。稲荷社なども見ゆ」と、出ているから、升本総本店は都内でも有数の老舗であることがわかる。

 都電の沿線に土蔵があったところは、そんなに多くない。麹町4丁目の質屋大和屋、本郷3丁目冠質屋、音羽1丁目の土蔵、中目黒終点の土蔵、根岸の松本小間物店、深川平野町の越前屋酒店の土蔵など、数えるほどしかない。今や、その半分は取り壊されて見ることも出来ない。最近、飯田橋の外濠が埋め立てられて、またまた「水」面積が減った。残念なことである。

 外濠線の東京電気鉄道会社によって、本郷元町から富士見坂を下りて神楽坂までが明治38年5月12日に開通した。続いて、3社合同の東京鉄道時代の明治40年11月28日に、大曲を経て江戸川葉科手が完成して、飯田橋は乗換え地点となる。一方、大正元年12月28日、飯田橋から焼餅坂を下って牛込柳町までが開通したことにより、重要地点となった。大正3年には、『10』番、江東橋〜江戸川橋、『9』番、外濠線の循環線、それに新宿からの『3』番、新宿〜牛込〜万世橋間が通る。

 昭和初期には、5年まで『18』番、角筈〜飯田橋〜万世橋、(19)番、早稲田〜大手町〜日本橋〜洲崎、『22』番、若松町〜お茶の水〜神田橋〜新橋が飯田橋を通っていたが、翌6年から『18』番が『13』番に、『19』番が『14』番に、そして(22)番は改正されて『32』番、飯田橋〜虎の門〜新橋〜三原橋と、『33』番、飯田橋〜虎の門〜札の辻間となった。昭和15年には『32』番は廃止となった。

 戦後は、『15』番、高田馬場駅〜茅場町、『13』番、新宿駅〜水天宮、『3』番、飯田橋〜品川駅となった。『3』番は昭和42年12月10日、『15』番は昭和43年9月29日に廃止、『13』番は昭和43年3月31日岩本町までに短縮の後、昭和45年3月27日から廃止された。

 13系統も、飯田橋から新宿までは殆ど単独路線でした、この単独部分が大江戸線のコースになっています。牛込柳町のあたりも鉄道過疎地域で、30年ぶりに鉄道が戻って来たと地元の皆さんに歓迎して頂きました。

 水天宮の前から折り返して来た『13』番の電車は、本郷台や牛込の台地を縫うようにして、上がったり下ったりして東大久保にやって来る。

 左手に弁才天をまつってある厳島神社があって、普通の弁天様と異なって、参道が通り抜けられるようになっいるので、抜弁天の名がある。

 ここから、大久保車庫前〜新田裏にかけては専用軌道になっていて、雪の日は殊に美しい。

交通の要所飯田橋

 
江戸川が外堀と神田川に分流する場所にかかる飯田橋。周辺は、江戸城外堀が完成した慶長16年(1639)ごろから河岸で栄えた。この繁栄は明治になっても続き、明治28年(1895)甲武鉄道が新宿との間に敷設された。さらに明治37年(1904)には、東京初の郊外型電車が中野まで走った。これが明治39年(1906)国有化されて中央線と名が付いた。そうして昭和3円(1928)、飯田橋駅が新設されると、飯田橋駅は貨物専用駅になった。これが現在の飯田町流通センターのルーツである。

 ここに、営団地下鉄東西線が開通したのは昭和43年(1968)、続いて昭和49年には外堀を隔てて営団地下鉄有楽町線も開通した。

 しかし、この町を大きく変えたのは、昭和43年に建設された桁間が都内最長の歩道橋と、自動車一方通行用の橋、それに昭和44年開通した首都高速5号線である。また、都電は昭和42年12月に姿を消した。

 自動車交通が都市を支配したケースの一つであるが、変わらないのは、車窓をかすめる無粋な鉄道用架線くらいなもの。面白いのは中央線ながら、日中は中央線電車通らず総武線の緩行電車が通ることである。

 昔は鈍行と呼んだ各駅停車電車を、何時の間にか緩行と呼ぶようになっていた。


 都電の重要な停留所で、しかも度々その始発点や折り返し点となるところに、何々橋と橋のつけられる名前が多いことに気づかれるであろう。新橋、日本橋、神田橋、厩橋、天現寺橋、万世橋、そしてこの飯田橋など。

 飯田橋と牛込見附の下ノ橋との間に、幅の広い飯田濠があった。「イナダつれる神田川、水道橋の上流も昔通り飲める」の記事が昭和22年1月の毎日新聞に載っている。この一帯、工場焼き払われて汚水が流れず、戦後暫くは、水が美しく澄み、都鳥が舞い戻ってきた事を伝えている。

 その後、時が経って流れは汚染されたかもしれないが、水をきれいにするとか、濠のまま活性化してみる実験をして欲しかった。東京都の再開発計画で、土地の最大効率を上げるという名のもとに、19階のビルが建った。セントプラザ、東京都飯田橋庁舎、東京国際ユースホテル、社会福祉総合センターなどが雑居している。

 再開発工事に反対して、この神楽坂河岸に代々暖簾を守ってきた材木問屋が1軒、最後まで頑張って立ち退かなかった。水面積は、川でも濠でも海でも、元来私的なものではなかった。水面積やその上の貴重な空間を残しておかないと、都市の中の建物と空間のバランスが乱れてきて、住む人の精神上望ましくない。

 このビルの前庭に人工の流れを造り、さくら、けやき、かえで、ひいらぎの名を持つ橋が4つ架けられている。

 豊かな水を集めた江戸川が、ここで外濠に落ち込む所を、昔は「どんどん」と呼び習わしていた。水の滝の如く落ちる音響からきた呼び名である。江戸から明治にかけては、この飯田橋のどんどんから船が出ていて、「俗にどんどんと称する所より神田川を下り、お茶の水を経て万世橋へ出て(船賃2銭)これより浅草橋へ出づ(船賃1銭)此早船は交通といふよりも、船遊びに近くお茶の水辺は雪にも月にも宜しく、時鳥(ほととぎす)にも名高し」と、金子春夢の「東京新繁昌記」(明治30年刊)に出ている。

 又、明治22年4月からは、飯田町駅から甲武鉄道線が八王子まで開通した。飯田橋駅は牛込停留場と呼ばれていて、今の飯田橋駅の九段側の入口、つまり牛込見附の石垣の残っている方が駅であった。昭和8年までは、今は貨物駅となっている飯田町駅から、甲府行や松本行、名古屋行が出ていた。昭和8年以降、新宿から長距離列車が出るようになったが、今でも客車の整備などに、よく飯田町駅が使われている。ここは、私がよくいう終着駅の貫禄がある。列車は凡て車止めになっていて、往年の始発駅の姿を偲ぶことが出きる。

 高田馬場から来た『15』番の電車が、茅場町に向って飯田橋を渡ろうとしている。この橋が新宿区と千代田区との境である。飯田橋駅のある南の方は、以前の麹町区で、現在は千代田区になる。その昔、徳川氏入府後、この辺りの人々を田安門内に呼んだところ、家の数は僅かに17軒で、一帯は水田であった。名主の飯田喜平衛からこの地名が出ている。かってここにはロータリーがあって、港区の天現寺、荒川区の宮地、豊島区の池袋と共に、都内でも交通の難所である。

 外濠線は、赤坂見附を起点に外濠に沿って環状線として一周していた。大正3年には、『9』番の番号の電車が外濠線と同じように循環していたが、その後、一周線はなくなった。

 (1) 線路の移設や延伸
 開閉する橋で有名だった「勝どき橋」上の都電路線が開通したのが昭和22年12月でした。新宿では、新宿駅東口の新宿通りから出ていた線路が、靖国通りに移されたのが昭和23年12月でした。

 都電と同じゲージの京王線の電車が、新宿追分(現在 新宿三丁目付近)を起点としていたが、昭和20年7月に新宿駅西口のほぼ現在地点(地上)に移転している。(京王50年史)。他の鉄道会社でも、かつては東京市電との直通運転を目指して、市電と同じゲージの電車もあったが順次ゲージが変えられた

 (2)新宿車庫と大久保車庫
 『11』、『12』、『13』系統の受持。大正15年新宿車庫の分庫として開設され、昭和14年11月営業所となった。戦後は戦災で焼失した新宿車庫が大久保車庫に同居していたが昭和38年12月統合されている。昭和43年2月11系統が廃止された後、昭和45年3月27日12・13系統の廃止とともに閉鎖され、現在敷地跡は都営アパートと新宿区文化センターになっている。

 かつての13系統、抜弁天方向から専用軌道跡の道を下ってくると大久保車庫の跡へ出るが、近代的な建物に変わった車庫跡は往時の面影は無くなっていた。

大曲りの「どんど橋」

 大曲りで直角に流れを変えてきた江戸川が、外濠に威勢良く落ち込んでいたので、江戸の昔からここを「どんど」とも「どんどん」とも呼び習わしてきた。右は新宿区左は文京区、両区を結ぶ橋の正式の名は『船河原橋』だが、俗に「どんど橋」と呼ばれているが、現在の河川法では、この川を「神田川」としているが、水源地から川に名を、それぞれの地域では、別の呼び方をして来た。井の頭川、江戸川、神田川、そして昔は平川とも小川とも呼んだという。

 船河原橋上を電車が走ったのは明治末期で、昭和40年ごろには『13』番の電車が、新宿駅と水天宮との間を往復していた。飯田橋の大交差点は五差路で真ん中に円形の大きなロータリーがあったのが終戦後の航空写真によると、よく見届けられる。

 外濠に沿った市ケ谷への路上からは『3』番の電車が品川駅なで走っていた。江戸川と並行した電車に『15』番が高田馬場駅と茅場町との間を往復していた。

 昭和62年に江戸川べりに来て見れば、交差点には四方に歩道橋が連なり頭上を高速道路が蓋をした上に大護岸工事で、鉄とコンクリートの塊という感じの交差点風景となってしまった。

 川沿いの歩道は何時の間にか消滅してしまい、昼なお暗きこの眺め東京都心の凄まじい発展の象徴の一語に尽きる。もう、あの長閑な川の流れ行き交うダルマ船などは永久にここでは見られないだろう。


娯楽のセンター後楽園

 全国に有名な後楽園は、野球場、遊園地としての後楽園かも知れないが、本来の後楽園は、その背後にある水戸家上屋敷の庭園の名前である。

 寛永6年(1629年)に徳川頼房が起工した回遊式庭園で、明暦の大火で全焼したが、その後、光圀公が明朝の臣、朱舜水(しゅしゅんすい)の意見を取り入れて寛文9年(1669年)ごろに完成させた。殊に全国から採り集めた敷石が見事で、春に秋に訪れる者を幽邊の境に導く。

 「後楽」とは、茫仲淹の『岳陽楼記』の中の、「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から来ている。為政者たる者斯くあるべきで、今日の為政者には耳のいたい言葉であろう。

 現在遊園地になっているところは、明治4年6月にできた砲兵工廠の跡で、この辺りの工事の時には、掘っても掘っても美しい赤煉瓦が出てきて、その広大な規模を忍ぶことができた。

 明治の頃、開成から陸軍工科学校を出て、砲兵工廠で機関銃の技術者として働いていた。これが昭和になって、板橋の造兵廠に移転して、昭和12年9月に野球場が完成した。当時、中国と戦争中の平日に、職業野球を見ようなんていう人は余りいなかった。

 小学生だった私(ゆきのわかんじん)は、学校の帰りに「ただ」で入れても貰って、ランドセルを枕に寝転がって観戦した。その中には沢村投手、三原内野手、白木投手、杉浦内野手、苅田内野手など錚々たるメンバーがいたものだ。

 それが、次第に兵隊に取られる選手も出て、服装も戦闘帽になってしまった。新宿から水天宮まで通っていた『13』番の電車は、土日には場外馬券売場へ来る人々でゴッタ返した。

 昭和48年4月にオープンした黄色いビルには、ボーリング場、スケート場と現在の場外馬券売場がある。この特別な黄色は、当時の後楽園のプロジェクト・リーダーの田辺英蔵さんが、彩色に悩んでいた時に、乗ったパンナムの機内で出たコーヒー・シュガーの色が、ちょうどあの黄色だったという。隠れた話がある。

 外濠線の東京電気鉄道会社が、明治38年5月12日に、本郷の元町から神楽坂まで開通させた。外濠線は赤坂見附を起点として、循環式に外濠に沿って一周していた。飯田橋から諏訪町、小石川橋、水道橋、本郷元町、湯島5丁目、師範学校前、神田松住町と停留場が並んでいた。

 大正3年には、『9』番の電車が外濠線を走った。昭和5年までは、『18』番、角筈〜飯田橋〜万世橋と、『22』番、若松町〜お茶の水〜神田橋〜新橋間となった。翌6年には、『13』番、角筈〜飯田橋〜万世橋と改正された。

 戦後は、万世橋〜秋葉原東口間が、昭和33年4月25日に延長されて、『13』番、新宿駅〜水天宮間となった。昭和43年3月31日から岩本町までに短縮、昭和43年、昭和45年3月27日から廃止された。

水道橋の(東京歯科大学)

 この眺めは、戦前から半世紀も変わらない水道橋の交差点である。右に国電の水道橋駅、突き当たりの茶褐色の建物は「東歯」といわれる東京歯科大学で、昭和5年からここに建っている。日本橋蠣殻町で開業されている小川洋先生は、新築まもなくい校舎に通学された小川洋先生に「東歯」の小史を、お伺いした。

 そもそも東京歯科大学は、明治23年、高山紀斎が芝の伊皿子に開いた高山歯科学院にその端を発する。その後、明治35年に後継者の千葉県出身の血脇守之助が、学校を神田小川町に移し、東京歯学院と改称した。その翌年、さらに校舎を水道橋の現在地に移した。

 近代歯学の学校として「東歯」の名は、戦前から全国に聞え、幾多の歯科医を世に送り、その数は最多である。水道橋校舎が半世紀を越した昭和56年9月に、キャンパスを千葉県稲毛に移転してからは、この建物は大学本部と附属病院として活用されている。戦前から、お茶の水駅のそばの官立東京歯学専門学校や日本大学の歯学部、そして飯田橋駅のそばの日本歯科医専と、歯医者の学校が殆ど中央線の沿線にあることは興味深い。

 今、目の前を横切ろうとしている電車は、新宿から来た『13』番の水天宮行きで、これと交わる南北の電車は『17』番の数寄屋橋〜池袋駅間である。道路上の石畳がいかにも美しいハーモニーを保っている。

 ちょっと余談だが、水道橋駅は娯楽の殿堂「後楽園」を控え、野球、ボクシング、場外馬券売場や昭和48年4月までは競輪場があって、競技が終了すると人また人の大波に襲われる。競輪が盛んだった頃、一度に大勢の乗客が押し寄せるのは最終でレースで大穴が出た時、なかなか来ない時は銀行レース、中ぐらいのこみかたはの場合は、やはり配当も中ぐらいだと、ベテラン駅員は長年の経験で解かるという。

 水道橋駅は、関東大震災までは現在と逆にお茶の水よりにあり、お茶の水駅は逆に水道橋寄りにあった。

だだっ広い岩本町交差点

 都電王国、須田町の交差点から東に歩いて来ると、昭和通りに交差する所が岩本町である。ここまで来ると東の方に、日大講堂(戦前、相撲の殿堂国技館)のドームが見えて来る。

 この交差点では、東西に12番、25ばん、29番が、そして南北に13番、21番が交差する。ただ、ここは道幅がだだっ広いので、これだけの電車が交差しても、あまり車輪の音が反響しないのが私には物足りない。やはり交差点の音は「ガタンガタン ガタンガタン ガタンガタン ガタンガタン」と、前後合わせて4つの車輪が、交差したレールをクロスする時の響きが聞えてこなければつまらない。

 関東大震災前には、須田町から岩本町辺りをとおって柳橋までの電車通りは、現在の道より1つ北の神田川に沿った細い道であった。神田川の南の提に柳が植えられていて、柳原土手と呼び習わされていた。今は柳森神社というのがあって昔を偲んでいる。そこの柳原通りは、セコハンの着物を売る店が軒を連ねた古着屋街で、新橋から芝大門にかけての裏通りの日陰町と共に有名であった。震災後に改正道路ができ、電車は広い路を通るようになった

 昭和18年頃には、この岩本町の書籍配送所には、中学生が学校の休みに勤労奉仕に来て働いていた。今次大戦中、若い働き手は次々と戦地に送られ、中学生がその代わりに労働をしていた。

 東京の中学生達は、全国の中学校や女学校に、新学期用の教科書の荷造りと輸送を手伝っていたのである。各地方の学校ごとに教科書を束ねてリヤカーに積み、秋葉原なで運ぶのが仕事だった。春風に自転車のぺタルを踏んで、流行歌など口ずさんで、この辺りを走ったのは、もう半世紀も前のことです。

 今は、昭和通りの上を高速道路が蓋をしたように蔽いかぶさり、大きな空は望めない。

 東京市街鉄道が明治36年12月29日に、神田橋から両国まで開通させた時に始まる。当時は須田町の交差点から神田川に沿った南の柳原土手通りを走ったので、現在の和泉橋の近くを走った。停留所名は和泉橋であった。

 南北には、明治43年9月2日に、人形町〜車坂町間が開通して、ここが交差点となる。
 大正初期の3年時には、2番中渋谷ステーション前〜九段、両国、3番新宿〜九段、両国、10番江戸川橋〜江東橋、7番人形町〜千住大橋間が交差した。関東大震災後の改正道路で現在地が交差点となった。
 昭和初期(5年)までは、14番渋谷駅〜両国橋、17番新宿駅前〜両国橋前、29番千住新橋〜土州橋間が交差する。翌6年には12番新宿駅前〜両国橋前、28番亀戸天神橋〜九段下、29番錦糸掘〜日比谷間、22番千住新橋〜土州橋間が交差する。

 戦後は、12番新宿駅〜両国橋、25番西荒川〜日比谷、29番葛西橋〜須田町、13番新宿駅〜水天宮、21番北千住〜水天宮となる。

 昭和43年3月31日から12番、13番は岩本町で折り返し、28番は須田町止まりとなった。同年9月29日から25番は廃止、21番は44年10月26日から、12番、13番は共に45年3月27日、29番は47年11月22日から廃止となった。

風俗の町(吉原)

「吉原」は保之佑の浜町の家から1キロメートル離れた人形町一帯のことである。この辺り、江戸時代「吉原」と言われ、いまで言う公認の風俗の町だった。

 「吉原」を開いたのは、北条家の家来筋に当たる「庄司甚右衛門」という人物である。姉は北条氏政の愛妾で、父が小田原城落城とともに討ち死すると、甚右衛門は江戸に落ち延びる。

 1600年、家康が関ヶ原に出陣する時、鈴ヶ森に店を出し、遊女に茶の接待をして、侍を慰めた。従軍慰安婦の始まりのようなものなのだろう。後に「吉原」という幕府公認の色街となった。

 ここ以外、江戸では売春行為を認めなかったので「吉原」は大いに流行った。ものの本には「神田佐柄木町堀丹後守の屋敷の前にある丹後風呂は群を抜いていた」と記録されている。トルコ風呂(ソープランド)の起源である。

 「吉原」は1655年正月の「明暦の大火」で類焼し、その年、「吉原」は浅草日本堤に移転した。

 それ以来、人形町あたりを「元吉原」、浅草日本堤を「新吉原」と言った。

『東國紀行』(浅草)

角田川も見えわたるに森のようなる梢ありとへば、關東順禮観音浅草と云所となん立よりて結緑すべしなり。

  秋ならぬ木末の花もあさくさの露なかれそう角田川かな

 などの詠歌がある。いずれも往昔の浅草を推測するに足るものである。このように浅草は往古より観音堂を始めとして、待乳山、駒形堂、石枕、浅芽ケ原、妙亀塚、釆女塚などの旧蹟に富んでいるので、文人詞客が訪れ、和歌や詩文などにも多く描かれている。

 明暦の大火により吉原遊郭も旧地人形町から今の新吉原に移り、当時の伊達男共は草深き山谷の土手伝いに通ったものである。また天保改革によって江戸三座と名高かった市村座、中村座、森田座などの芝居小屋も、猿若町に寄せ移り、浅草は名実共に歓楽街として栄えてきた。




参考文献
都電百景百話