8系統(中目黒―築地)
総距離10.209km
中目黒-下通5丁目-恵比寿駅前-渋谷橋-下通2丁目-天現寺橋-光林寺-四ノ橋-
古川橋-三ノ橋-ニノ橋-一ノ橋-麻布中ノ橋-赤羽橋-飯倉4丁目-飯倉1丁目-神谷町
-巴町-虎ノ門-霞ヶ関-桜田門-日比谷公園-数寄屋橋-銀座4丁目-三原橋-築地
開通 S 2. 3
廃止 S 42.12
駒沢通り(目黒川)
『8』番が、天元寺橋から古い商店の並ぶ下通りを、ゆっさゆっさ揺れながら古川の流れに沿って蛇行しながら走る。渋谷橋から左に曲り恵比寿駅のガードを潜ると急坂の長い新道坂を一気に下ると、目黒川の橋「皀樹(さいかち)橋」を渡る。昔は槐橋(さいかち)とも書いた。
昭和22年11月2日の毎日新聞に中目黒の1,000世帯、半年間午後10時以前に電灯のついたためしがない。半年間の真っ暗闇にたまりかねて関配へ談じ込むという記事が載っている。それにしても戦後暫くはよく停電したものである。ローソクは各家庭の必需品であったが、ローソクの一般配給の見込みはなく、暗い首都東京の夜が続いた。
ここ駒沢通りは道幅も広くなり、昭和46年に新たに架橋されたが、目黒川は台風の度事に氾濫し、周囲に被害を加えてきた。現在は護岸工事をする一方で、地下に遊水槽を設け、何万トンという余水を一時プールして、水位を調節する工事を行っている。
橋の大柳も消え橋柵も鉄製となり、周辺の住宅からは瓦屋根がなくなった。今や、歩道橋がかかり、中央分離帯も出来て、メカニックな感じの街並みになった。
恵比寿
桂太郎の弟・二郎が明治20年(1887)に創立した日本麦酒醸造有限会社で、2年後に売り出したビールに、縁起を担いで「エビスビール」の名を付けた。恵比寿は七福神の一つで、もともとは外国人を指し、夷の字を当てたりした。大和朝廷の勢力が東国に及ばなかった古代、畿内で東国人を東夷と呼んだのもその例である。
恵比寿駅は、明治18年(1885)敷設された日本鉄道品川〜赤羽線の、エビスビール専用貨物駅として明治36年(1903)に設置され、明治39年乗客取扱駅となった。地元生産の商品名が駅名になる例は、稀ではないか。
縁起のよい恵比寿の名は、通りの愛称となり、昭和3年から町名に採用され、戦後はいっそう人気を呼んで、昭和41年からは現在の地域にまで広がった。
戦時中、大日本麦酒に統合されたが、昭和26年にアサヒビールとニッポンビールに分離、さらに昭和39年にニッポンビールはサッポロビール株式会社と社名を変更した。そうして、昭和46年オールドファンの要望に応えてエビスビールを復活させた。また、昭和60年「ビヤステーション エビス」を開店した。しかし、渋谷区と目黒区にまたがる8万3,000uの都心工場用地は贅沢過ぎて現在、平成6年完成を目指して、恵比寿ガーデンプレイスの建設工事が始まっている。
この恵比寿駅と交差して、営団地下鉄日比谷線が開通したのは昭和39年である。
広尾電車営業所跡
広々とした都会の中にあって、川の流れというものは地図の中でよく目立つ。渋谷の辺りを流れる渋谷川は、麻布に入っては古川、赤羽橋からは新堀川と呼ばれて東京湾に注ぐ。海の方から金杉橋、将監(しょうげん)橋、芝園橋、赤羽橋、麻布中ノ橋、一ノ橋、ニノ橋、三ノ橋、古川橋、四ノ橋、五ノ橋と遡って天現寺橋となる。
停留場名は天現寺橋となっているが、車庫は広尾車庫と呼んでいた。天現寺橋から北への道路脇には、戦後数年間罹災者が仮のバラックを建てて住んでいたことがあった。
麻布という土地は、昔から大使館や公使館の多い所で、坂と谷が複雑に入り組んでいる。こういう平らでない土地は、細かく地割をして民家を連ねるよりも、お寺や邸宅などの面積の広い区画割りに適している。気をつけて一歩いっぽ坂を散策すると、思いがけない崖下に、湧水がちょろちょろ音を立てて流れているのを見つける事もある。
20年後の広尾に来て見れば、車庫跡に都営の広尾5丁目アパートが建ち、交差点には歩道橋が張り巡らされ、近くには明治屋だの、スーパーナショナルだの、新人類の喜ぶ街が展開されつつある。
天現寺橋の広尾車庫は、『7』番、『8』番、『33』番、『34』を管理していた。都電がまだ走っていた頃の写真と見比べてみると、こうも変わるものかという見本みたいな所だ。
33系統は営業所(広尾営業所)の前を通らない路線でした、停留所の名前に車庫前というのは無く、営業所(車庫)前の停留所名は「天現寺橋」でした。
現在の都営バス天現寺橋(都06・品97・86・黒77)、及び広尾病院前(都06)停留所が近くにある天現寺交差点の一角には、昭和44年10月頃まで都電の「広尾電車営業所」がありました。受け持っていた系統は7系統(四谷3丁目ー天現寺橋ー品川駅前)、8系統(中目黒ー桜田門ー築地) 33系統(四谷3丁目ー六本木ー浜松町1丁目)、34系統(渋谷駅前ー古川橋ー金杉橋)でした。現在、営業所跡地には都営アパートが建っていて、当時の面影を忍ぶことはできませんが、アパート横にある公園の一角に、画像(上)の案内板があり、ここが都電の営業所であったことが書かれています。
なお、下の画像は現在建っている都営アパートの全景で、アパートの右側の道の奥が西麻布方向。手前の道が明治通りで左が渋谷方向です。
東京タワーなんて何時でも登れると思っているうちに、1/4世紀も経ってしまった。
昭和33年の12月23日に開業された東京タワーは地上から333メートル、海抜なら356メートルであり、地上からの高さでもパリのエッフェル塔より高い。
東京タワ-と都電を一緒に撮れる場所は、赤羽橋、金杉橋、三河台町などがあったが、ここ飯倉片町の旧郵政省の前からの眺めが最も良かった。
右側はソ連大使館、道路の真中で、しゃがんで写真を撮るので、休日のお昼前を狙った。『33』番の系統板は、『11』番、『22』番と共に並び数字の中では最も恰好がよかった。
山手の下町麻布十番
一ノ橋では、古川が直角に流れを変えているから、空からの写真ではひときわ目立つ。川の内側の麻布神明宮のある小山町は焼けてないのに、麻布十番の商店街は空襲で焼かれた。
本郷3丁目、四谷、神楽坂などと共に山手の中にありながら、下町の雰囲気を持つ街だ。江戸時代から、日本橋、上野、浅草、神楽坂、人形町、門前仲町と並んで7大盛り場の一つといわれる。近くに数多い大使公使館を持ち、麻布十番の商店街には、すっかり日本の生活になじんだ外国人が普段着姿で買物をしている光景をよく見かける。肩のこらない気さくな街だ。
商店街の奥に十番温泉なんかもあって、十番寄席も催される。その向いに、一昨年の暮に、麻布更科のおばあちゃんが、本家本元を名乗ってそば店を開いた。
麻布十番の人たちの悩みのタネは、地下鉄が近くを走っていないことだ。都電時代には、『4』番、『5』番、『34』番がやってきていた都電王国だったし、都バスも集中しているが、地下鉄の方ではさっぱりで、六本木や青山より立ち遅れたというが、でも、葬儀社以外凡てがある商店街である。
城南の電車王国一ノ橋
江戸図を真上から眺めると、真中に江戸城があり、右と左に、ちょうど対称的に川筋が大きく直角に曲がっている所がある。一つは神田川が曲がっている大曲で、もう一つは古川が曲がっている一ノ橋である。字の上では一ツ橋と似ているが関係はない。新宿御苑の中の池が水源という渋谷川は、千駄ケ谷、渋谷を洗って、広尾、麻布の低地で、辺りからの湧き水を集めながら一ノ橋に来て90度南に曲がり、金杉橋をさいごにの端として東京湾に注いでいる。麻布に入ってからは古川といい、河口附近になると金杉川とも呼ばれている。
「えー、次は一ノ橋、麻布十番」と、電車の車掌さんは必ずといっていいほど、そう告げた。元禄の昔、白銀御殿御造営で古川を利用して建材を運び込んだ時、その労働に従事していた人々を1番組から十番組までに分けていた。この一ノ橋のところを受け持ったのが十番組だったということで、麻布十番と呼ぶようになったという。地形的に考えてみても、三田台地と麻布台地の間の沢になる古川に沿って道が敷かれ、電車が開通した。
『4』番、『5』番、『8』番、『34』番と、4系統が一ノ橋を渡る。今、写真の1番右の『4』番が、一ノ橋で古川を渡っている。停留所の安全地帯も、他所と比べるとえらく幅が広い。乗降客が多いことを物語っている。いろいろな車型がここを通るので、城南の電車王国といったところである。
この左の方に麻布十番の商店街があって、夕方には背後の住宅地から主婦が買物に出かけて来るので、街は活気が溢れる。殊に、近くにある大使館、公使館関係の外国人の買物客が人目につく。日曜など、外国に来ているような錯覚に陥入ることがある。そばの麻布永坂更科、カステラの白水堂、豆の豆源、焼肉の三幸園、洋食の江戸屋など味の散歩道でもある。
「ハイ、ハイ次は一の橋麻布十番」と車掌さんは東京でも数少ない川の一つ古川が、大きく90度流れを変えるのが一の橋である。
元禄の昔、白銀御殿造営で、古川を利用して建材を運んだとき、働き手を一番組みから十番組まで分けたが、その十番組がここを受け持ったので地名になった。『4』、番『5』番、『8』番、『34』番と種々の系統が集まった。
麻布中ノ橋の大銀杏
道行く電車がこんなに小さく見える。それほど大きい銀杏が麻布中ノ橋から一ノ橋に行く道端にある。都内には芝や麻布、本郷、小石川、牛込などに大銀杏が何本かあるが、いずれも公園や学校やお邸の中にあって、ここのように電車道にあるのは稀である。樹齢は400年近いと、いわれ根元に銀杏稲荷大明神をお祭してある。小さな祠(ほこら)があって、油揚げがいつも2枚供えてある、銀杏のふもとで長いこと、お菓子屋を営む横田さんは、「この大銀杏は、この辺りでは有名な目印で、私の店なんかに来る人には、赤羽橋から四方を見渡せば大きな銀杏があるから、そのふもとが家だから・・・・・・・なんて教えればよかった。でも、最近は、電線に触れるといちゃ電灯会社が枝を下しに来るし、随分小さくなっちゃって、冬なんか葉っぱがないから目印になりませんよ」と、いっていた。
ここは、現在は三田1丁目となったが、昔は芝区三田小山町といって、小高い丘地が多い町である。この大銀杏のそばに、天祖神社の神明宮がある。なんでも芝神明宮の元地で、元神明の宮司さんがお守りをしているという。その路地の3軒目に、元の警視総監田中栄一さんの家があった。背後に見えるのが赤羽橋の済生会病院である。江戸時代は久留米藩主の有馬邸であったが、明治になって海軍造兵廠から済生会病院となった。『34』番の電車は、金杉橋で折返して来て、古川に沿って渋谷駅まで行く。金杉橋からは『4』番、五反田駅行と一緒になり、途中、芝園橋で『5』番、目黒行と合し、赤羽橋からは(8)番、中目黒行と落ち合い、麻布と芝の谷間を通っている。麻布中ノ橋から、この大銀杏を過ぎれば、間もなく一ノ橋で古川を越える。古川は一ノ橋で90度左に曲がっているので、一ノ橋越えると川筋は、それまでの右側から左側に変わる。電車王国を行くという感じである。
赤羽橋の火の見櫓
終戦後の航空写真で港区を見ると、今や最もビルが多い地区なのに、なだ屋根が低かったり、戦災の傷跡が癒えてないことがわかる。東北の緑の多い所が芝増上寺であり、それと斜めの広いスペースは、済生会病院と府立第6高女(現、三田高校)、専売局工場(現、日本たばこ)、三井クラブなどである。済生会病院の土地は、久留米藩主有馬家の屋敷跡で、その中に高い火の見櫓が建っていたのが、広重の絵にも描かれていて、江戸でも知られた火の見櫓であった。
赤羽橋の火の見櫓は、有馬の日の見櫓と位置は異なるが、遠くから見えた。望楼の東北隅には、半鐘が下がっていた。北風の吹く冬の夜など、望楼に登って勤務に着いていた係員は大変だっただろう。以前は、望楼の回廊をゆっくりゆっくり見張りながら歩いていた係員の姿を見ることができたが、こうビルが増えては、火の見櫓も役に立たず、残っていた火の見櫓も、長いホースを乾かすのに利用されるようになってしまった。
芝の切通坂ほど近く
浜松町1丁目で折返して来た『33』番の電車は、御成門の交差点を通過すると、やがて緩やかな石畳の坂道にさしかかる。右側は以前、西ノ久保廣町といった。左側は芝高から正則高校に下りる切通坂に通ずる、増上寺と青松寺の間の坂下に出る。今、電車が上っている坂は、元来、無名の坂だが、右側の廣町の崖がなかなかよい。「新切通坂」ともいえそうだ。ここを西に通り抜けると神谷町の合流点である。
虎の門の方から来た『3』番、『8』番と一緒になって飯倉1丁目の方に行く。この辺り、往古は芝増上寺や青松寺など名刹の土地がもっと広く、坊寺のあった場所である。こういう石畳の坂を電車が通る時、敷き詰めた石を伝わって、車輪の響きが辺りの落ち着いた佇の中に溶け込んで行く。湯島の切通坂、氷川下町(千石3丁目)の猫又坂も、これと似た地形である。
写真の左側にある宝塚女子旅行会館は、関西から東京公演に来た"ズカ"の生徒達の宿舎である。宝塚音楽学校は、大正2年7月15日、小林一三によって創立されて以来、歌に踊りに劇に数多くのスターを送り出している。物事の真髄に触れるということはさほど簡単な事ではないが、昭和40年代、私は宝塚のスータンこと真帆しぶきの演技に出会って、宝塚歌劇の真髄らしきものに触れることができた。全くこの頃のスータンは素晴らしかった。「私はこの道しかない」という打込んだ姿は、ある時には神がかっていたと、いっても過言ではない。現代、厳しい練習に耐え精進しているのは、宝塚と、ある種のスポーツ選手達だけだろう。宝塚、高校野球、ラグビー、バレーなどに人気が集まる所以である。宝塚女子旅行会館は、昭和47年には恵比寿の方に移ってしまった。
『33』番の電車は決して幹線ではないが、ちょうど日本列島を横断する鉄道のように、芝から麻布という谷から丘を縫って走る、なかなか小粋な系統線であった。
明治44年8月1日、御成門から麻布台町まで電車が開通したのに始まる大正3年には、青山車庫所属の『8』番、宇田川町(浜松町1丁目)〜青山1丁目(又は、青山6丁目)間が通る。
芝のだらだら祭り
「芝で生れて神田で育つ」とは、浪花節の「森の石松」ではないが、芝っ子には江戸っ子としての自負がある。9月11日から21日まで、11日間も長いお祭をやっているのが芝明神様だ。芝のだらだら祭りといわれる所以である。その9月15日が、祭儀のお行なわれる日である。現在は、9月15日は敬老の日として旗日になっているので、1年おきに氏子各町連合渡御がある。芝プリンスホテル前の広場に、33ヶ町の御神輿が正午に集合、午後1時から発進する。
今、新橋5・6丁目の御神輿が、集合場所に出かける所だ。新橋5・6丁目町会は、昔の路月町と宇田川町である。横町の神酒所から出てきたばかりなので、まだ担ぐ方も本調子ではないので、その日によって、一緒に担ぐ仲間によって肩がなかなか揃わない。集合地点に行く前に疲れても困るので、こういう時の担ぎは、比較的平担ぎで軽く担いで集合地へ急ぐのが得策である。見せ場はまだ後に控えているのだから、それまで力を溜めておく方がよい。音頭をとっている頭の半天は「め組」である。東都でも、「い組」「は組」と共に人気のある組だ。
頃は、文か2年、芝明神の境内で四ッ車大八と九竜山の花相撲が催された時、め組の方に挨拶がなかったということから、血の雨を降す大喧嘩にまで発展した。この評判がたちまち江戸中に広がッた。歌舞伎でも「神明恵和合取組(かみのめぐみのわごうとりくみ)」として上演され、5代目菊五郎の演ずる「め組」の辰五郎は、東都の芝居好きをうならせた。「め組」の纏は形がよく、「籠目鼓胴」の纏とも「籠目八ッ花形」の纏ともいわれた。また、「めぐみ」に通ずることから、お正月の縁起物のミニ纏がよく売れる。
浜松町1丁目で折返したばかりの、本来は『33』番の電車は、北青山1丁目まで行ってから、天現寺橋の広尾車庫に帰るのであろう無番号で出発した。
明治36年8月22日、東京電車鉄道会社線が東京での最初の電車を、北品川八ッ山〜新橋間に通した時に始まる。この方向には、大正4年5月25日に、御成門〜宇田川町(浜松町1丁目の旧称)に線路が敷けた。この時は、『8』番、宇田川町〜青山1丁目(又は、青山6丁目)間、『1』番、品川〜上野浅草間がここを通っていた。
昭和に入り5年までは『13』番、四谷塩町(四谷3丁目)〜宇田川町、『1』番、品川〜雷門、『2』番、三田〜吾妻橋西詰、『27』番、神明町〜芝橋、『32』番、南千住〜芝橋間が走る。
戦後は、『33』番、四谷3丁目〜浜松町1丁目、『1』番、品川駅〜上野駅、『4』番、五反田駅〜銀座間が通る。『1』番、『4』番は昭和42年12月10日、『33』番は昭和44年10月26日から廃止された。
三田から神谷町
★三田の台地上にある、慶応義塾大学の東門からの眺めは、都内で最も贅沢な部類に属する。創立50周年を記念して建てられた、半ばゴシック式の赤煉瓦の図書館と、門の左側には天保頃からの漆黒の土蔵造りが重々しく影を印していた。多田味噌店の土蔵だった。
50年以上前の空からの写真でも、赤羽橋の上に、貯金局、都立第6高女(三田高校)、三井クラブなどが、緑の樹々の間に美しいレイアウトで配置され、その南に慶応義塾がある。周囲には戦災を免れた黒々とした屋根瓦が残っている。慶応ボーイは、東門のことを「幻の門」と呼び習わしてきた。
20年経った冬「幻の門」の中からレンズを覗くと、多田屋の土蔵は既になく、それでも跡地は高層ビルではなく、更地のままだったからほっとした。
近くの鳥羽帽子店の3代目の佐藤栄男さんに話を聞く。と「うちは大正2年から90年も慶応の制帽を凡て手作りでやって来たんですが、最近じゃ、運動部や応援部の学生くらいしか、制服制帽を作らないから寂しいですよ。昔は新学期には3,000個も作ったんですよ。慶応の帽子はドスキンを使うところが特色ですよ」
★古川に沿った都電に乗っている時が、一番東京にいるという感じがした。一ノ橋、ニノ橋、三ノ橋、古川橋、四ノ橋なんて、停留場名を告げる車掌の方も楽しそうだった。
古川橋から北、麻布十番一ノ橋にかけて空撮写真を見ると戦火を蒙(こうむ)った跡が白々と写っているが、南の方は黒々とした瓦葺の民家がひしめいている。
古川橋から魚籃坂下にかけて、道路がこんなに拡幅されてしまった。一体全体、どこに立ったらよいのやら迷っていたら、向いの路上で店先の掃除をされていた、山崎文具店の山崎美富子さんが、「うちは大正3年に店開きしたといいますから、80年以上ここにいますが、拡幅前のお店はちょうど中央分離帯の辺りでしょう」と教えてくれました。
久しぶりに尋ねて来たんでは、昔の通りがこれほど変革してたら、昔を知っている人でも、信じ難い街並みである。古川橋から魚籃坂下への眺め、この路線は、『5』番、目黒駅〜永代橋と、『4』番、五反田駅〜銀座が利用していた。右側(下り車線)にあった家屋が大幅に取り壊され、清正公前への幅広い道路が貫通した。
★東京の城南にあって、ぽつんと高い愛宕山、あの86段 の男坂はよほど勾配がきついとみえて、空中写真では極く短く写っている。その右に曲線の女坂が優しく浮き出ている。愛宕山のトンネルは、もちろん空からは見えないが、トンネルを出た道を西にそのまま来ると、西久保巴町になる。杉田玄白の菩提寺真福寺の四角い屋根瓦が光って見える。この辺り戦災を免れた古い家並みが続いている。芝増上寺から続く寺院の多い町で、また表通りには、茶道具や美術品を扱う店が多い。西久保巴町、今や虎ノ門3丁目。
この辺り、かっての芝区で、今は港区なのだが、芝はやはり下町の顔と山手の顔との両面を持っている。私は戦前の面影残る西久保巴町が好きで、何度か撮影に来た。この東側に、巴町の砂場というそば屋があって、特にとろろそばは他の追従を許さないものを持っている。
20年後の対比写真を撮り比べると、昔ながらの歩道橋の上に立てば、古い家々がどんどん建てかえられて、昔を偲ぶよすがもない。一度9月に来た時には、街路樹が茂っていて、街並みがうまく表現できないので、お正月休みにやって来た。うそみたいな静けさだ。
★都電王国虎ノ門から南へ、飯倉1町目に向う途中に神谷町はある。航空写真では神谷町の東南の高台にあるオランダ大使館とその地続きの芝浄水場の平面が大きく目立っている。西北の方には大倉邸(ホテルオークラ・大倉集古館)の空間がよくわかる。
飯田橋から都電『3』番が品川駅に向っていた。四谷3丁目から浜松町1丁目へ向う『33』番の電車がここで曲がっていたので、ポイントの切り替えをする信号塔が残っていた。東南角の山口病院の植込みには、白樺が数本立っていたのを想い出す。
神谷町もご多分にもれず、虎ノ門4丁目などという、愚かにもつかない町名になってしまっているが、数字には個性がないから、4丁目とも6丁目とも区別がつき難い。営団地下鉄は、日比谷線神谷町駅のままである。地上には神谷町は存在しないが、利用者はこの方が解り易いということを実証してみせてくれている。地下鉄はここの他にも、田原町、稲荷町、末広町とか、昔の町名をちゃんと残してある。余り統一的態度ではないが、都バスの停留場名は、神谷町駅前と、地下鉄便乗型だ。町名改正はもう御免だ。
神谷町の右上は、江戸見坂上のホテル・オークラのある霊南坂の続く台地で、左は芝の切通坂から御成門、浜松町1丁目に出る、今や地価高騰のま只中にある。
本当は、愛宕山のトンネルをくぐって、西に出たところで、震災にも焼けなかった、瓦葺きの日本家屋が建ち並ぶ、旧芝区の中で、桜川町、廣町、西久保巴町と共にしっとりとした家々が、つつましく軒を寄せ合って暮らしてきた所である。
昭和47年では、28棟67階であったものが、10年後には、14棟と、棟数は半減し、合計47階で平均階数は2.39から3.35階に増えている。
私が都電の写真を撮影した20年前には、この右手のドン突きのところに、武家屋敷風な門が残っていたが、現在はない。
神谷町は分岐点だったので、信号塔があったが、これは、飯倉1丁目方面から来る『3』番と、『33』番を識別分岐するためであった。『3』番は虎ノ門へ直進するが、『33』番はここで右折して、浜松町1丁目へ向けて進んでいた。廃止前数年間は、ポイントマンが不要のオートマチックになっていた。架線上のコンデンサーが二つ並んでいて、直進の電車『3』番は、二つをパタンパタンとビューゲルで叩く。この時はレールのポイントは右折用に割れない。
ところが、曲がる必要のある『33』番は、まず第1のコンデンサーを叩いたら、いったん停車の位置に停まる。すると、レールが右に割れる。『33』が曲がって進んで行けば、すぐ頭上の架線上に別のコンデンサーが1個あって、それを叩くと、ポイントはもとのに戻るという仕掛けになっていた。
だが、時たま、都電の直前に車が入って来ると、直進車が、コンデンサーを二つとも続けて叩けないことになる。その場合は、もちろんレールは右折用にセットされてしまう。私は、こういう場面に何度か出くわしたことがあるが、その時には、後ろの車掌が急きょ降りていって、電柱に取り付けた箱をあけるカギは、実は切符を切るハサミの先端であったのはおもしろいことだった。
大分脱線したが、神谷町には、地下鉄日比谷線が通っているので、大勢の乗降客が利用している。私はすべての高層ビルが悪いなどといっているのではない。要は、そのビルある周囲の環境と余りにもかけ離れていて、そぐわないビルではよくないということである。そして、そのコミュニティと溶け込んだものであることが望ましい。ビルが増えても、階上に居住者が増えれば、近くのお店も新しいお客が増えることにもつながるし、年中行事のお祭りにも参加する人が存続するからいいが、コミュニティの欠如というのが困る。人の住める町ではなくなるからで、これでは文化の担い手も絶えてしまうではないか。
最古参建築の愛宕署
戦前の東京デ目立つ洋風建築は、郵便局、警察署、学校や銀行など、ごく狭い範囲に限られていた。二等郵便局や警察署などは2〜3階建のなかなか個性のある建て方になっていた。戦後20数年も経てみると、それらの建物が一つ一つ消えて行って、近代的な四角っぽいビルに姿を変えてしまった。気がついた時には、指折り数えるほどになっている。警察署では、四谷、深川、南千住、万世橋の各署と愛宕警察署くらいなものだった。愛宕署は以前は芝警察署といっていた。写真の電車は、浜松町1丁目(旧宇田川町)で折返して、これから四谷3丁目に帰る『33』番である。右に玄関の見えるのが愛宕署で、その隣りが芝消防署である。愛宕署は大正15年に建てられたから、半世紀近い風雪に耐えてきたグレーの建物である。
想い出しても、小平事件、バー・メッカ殺人、連続射殺魔事件などの、犯罪史の残る大事件を扱ってきた。ところが、同署の留置場は僅かに五房だけという、佳き時代の建築では、現在のマンモス東京のど真ん中の犯罪には追いつけないのは当然で、4階建の別館を背後に増築した。壁のねずみ色がなかなか凝っていた愛宕署ではあったが、昭和56年11月に取り壊された。今は、昭和59年の新庁舎完成まで、増上寺境内の仮庁舎に引っ越している。
この『33』番には、天現寺の広尾車庫所属の8000形が多い。8000形は鉄鋼製の細長い電車で、スピードは出るが、車体が軽いため車輪の響きがもろに室内に伝わり、窓ガラスがガタガタ揺れるので、運転手さんの間でも不評であった。この愛宕署のように、警察署と消防署とが隣り同志に並んでいる所は、本郷の本富士署と、上野署、深川署などがある。
東京市街鉄道線が、明治37年6月21日、三田〜日比谷間に電車を通した時に始まる。一方、御成門〜麻布台町は明治44年8月1日に開通し、御成門〜宇田川町(浜松町1丁目)間は大正4年5月25日に開通して、御成門は完全な交差点となる。
都電王国の虎ノ門
虎ノ門は、12支の名前を持つ都内唯一の門だが、その由来は3説もある。太田道灌がここから出陣する時「千里行くとも千里帰るは虎」といったからとも、また、朝鮮から生きた虎を城中に献上する時、檻が余りにも大きいので門を大きくした。3つ目は、地相から、西の方の鎮めとして白虎の方向にある門なので虎ノ門と名付けたという。いずれにしても、江戸城最西南の門であった。
いくら由緒のある場所でも、都電が複雑に交差していなかったら、ここにはこなかっただろう。東西に6番(新橋〜渋谷駅)、南北に8番(築地〜中目黒)が十文字に交わり、3番(飯田橋〜品川駅)が曲り、9番(浜町中の橋〜渋谷駅)もここで曲がっていたから、交差点内に信号塔が2つも連なっていて、共にポイントマンが登って操作していた。
赤坂見附、三宅坂、桜田門経由で銀座に向っていた9番が、オリンピック道路の建設で、昭和38年10月1日から、六本木、溜池、虎ノ門〜桜田門という通り方に改められ、都内では唯一の超A級交差点となっていた。この辺り、昔から人の住まない官庁街である。霞ヶ関ビルを背にして、新橋方面を見ると、この通は早めにビル化が進んでいたため、町並みは、それほど変化していない。ここには、大きな交番モある。
外桜田の警視庁
桜田門の向いに、ちょうど皇居の番をする様に構えて建っている茶褐色のビルが警視庁である。円形のゴンドラを持つこの建物は、桜田門とその廻りの緑の中にあって、ひときわ目立つ重厚な感じであった。玄関脇の両側には警護の警官が立っている。
警視庁は最初からここにあったのではない。慶応3年10月14日に太政奉還され、同年12月9日を期して徳川氏から王政が復古された。日本は明治となって、欧米から近代国家にふさわしい諸制度急ピッチで学び取ることとなった。明治5年9月、鹿児島出身の川路利良を1年間欧州に留学させ、近代警察制度の摂取に当たらせた。その結果、内務省が設置され、明治7年1月27日、太政官特達で、鍜治橋内の旧津山藩邸跡に東京警視庁が出来、川路利良が大警視に任じられた。東京府内を第1大区から第6大区の六つの区域に分けて分掌させたには、消防署の区分と同じで、当時、消防は警察と同じ管轄であった。現在も分掌として、消防署と警察署とが隣り合っている愛宕や本郷元富士、深川などは、その時の名残のままである。
その後、東京の都市化の波に対応すべく、手狭となり、また、東京駅建設の敷地に当てられたため、鍛冶橋内の警視庁を廃し、日比谷濠端の帝劇の並びに、赤煉瓦庁舎を新築して移動した。明治44年3月30日のことである。しかし、この立派な庁舎も僅か13年で、関東大震災により焼失した。その後、日比谷の濠端から、現在の外桜田に新しく鉄筋コンクリートのビルを建設、昭和6年5月29日に完成した。その年の10月20日、昭和天皇が行幸され、この日を「警視庁記念日」にしていたが、昭和33年からは1月15日に改められた。それから昭和56年、さらに新たなビルとして、大きく衣替えをした。
雨宮敬次郎経営の街鉄が、明治36年11月1日に、日比谷〜半蔵門感に電車を通したのに始まり、次いで明治8年10月11日に、桜田門〜霊南坂にも線路が敷かれ、桜田門は乗り換え点となる。
大正3年には車庫単位の番号制が出来て、『2』番、中渋谷ステーション前〜築地両国、築地浅草行、『3』番、新宿角筈〜築地両国、築地浅草行の名門コースがここを通り、一方、『8』番の桜田門〜札の辻が運転されていた。昭和になってから昭和5年までは『11』番、桜田門〜札の辻、『14』番、渋谷駅前〜両国橋、(16)番、新宿駅前〜築地が通る。翌6年の大改正で、『11』番は『34』番に、『14』番は(9)番に番号変更される。
戦後は、『9』番、渋谷駅〜浜町中ノ橋、『11』番、新宿〜月島、『8』番、中目黒〜月時間が通る。『8』番は昭和42年12月10日から廃止された。『9』番、『11』番は、昭和42年12月10ひから区間が変更され、『11』番は新宿〜新佃島、『9』番は渋谷駅〜新佃島となった。『11』番は昭和42年2月25日、『9』版は昭和43年9月29日から廃止となった。
お濠端の帝国劇場
皇居の濠を挟んで帝劇を撮る。濠にはブラックスワンが泳いでいる。モノクロ写真では見難いが、水かきの波紋によってその位置はほぼ。わかる帝国劇場は、わが国にも欧米に比べて恥ずかしくない純洋風劇場を作りたいということで、渋沢栄一を創立委員長とし、明治14年3月に開場した。東京商工会議所の赤レンガと異なって白夜の殿堂として華々しくデビューした。また、帝劇では専属の女優養成所を経営し、卒業生による演技を見せたことは、かってない試みであった。
その養成所は芝の桜田本郷町に帝国劇場附属技芸学校として開校された。今の西新橋1丁目の旧NHKの近所である。
第1回の卒業生には、森律子、村田嘉久子、初瀬浪子、河村菊江、藤間房子、鈴木徳子という錚々たるメンバーがいた。
戦後の我々に忘れないのは、昭和30年1月上映された「これがシネラマだ」である。それまでの映画の常識を越えた大型画面に、すっかり魅了されてしまったものだ。「これがシネラマだ」のうたい文句も有名になり、他の商品にまで「これが・・・だ」などと便乗されるほどであった。
明治の創立の時には、三越の日比翁助も発起人の中に名を連ねていたこともあってか、三越の濱田取締役の発案になる「今日は帝劇 明日は三越」のキャッチフレーズでよく親しまれた。
シネラマも、オリンピックの年の昭和39年1月に幕を閉じ、地上9階、地下6階の現在の帝劇が昭和41年1月に完成した。今は東宝系の劇場として幅広い演芸活動の場となっている。
右の建物は、第1相互ビルで、終戦後は、アメリカ軍のGHQがあった。縦に通った大きな四角い柱がこの建物の特色で、どっしりした重量感が米軍にも好まれたのであろう。この濠端には柳が植えてあって、陽春の風になびいた柳の枝がなかなかいい。
東京市街鉄道線が明治36年11月1日、日比谷〜半蔵門、翌7年6月21日、同じ街鉄の日比谷〜見た間が開通した。一方、外濠線の東京電気鉄道の虎ノ門〜土橋間が通じて、内幸町あたりで交差する。
日比谷公園の交差点は、公園の東北と東南との2つがあった。外濠線は東南で交差し、街鉄の渋谷と新宿から来たものは東北で交差していた。
大正3年には東西の方向に渋谷から2番が、新宿からは3番が築地、両国と築地、浅草に、札の辻から8番が築地に、そして南北の方向には、巣鴨の6番が薩摩原(三田)に通じていた。
昭和6年には2番三田〜浅草駅、7番青山6丁目〜永代橋、18番下板橋〜日比谷、29番錦糸堀〜日比谷が11番の新宿駅〜築地と交差する。
戦後は南北の方向には2番三田〜東洋大学前、5番目黒駅〜永代橋、25番日比谷〜西荒川、35番巣鴨〜西新橋1丁目、37番千駄木2丁目〜三田の6系統、東西の方向に、8番中目黒〜築地、9番渋谷駅〜浜町中の橋、11番新宿駅〜月島の3系統が交差していた。2番、5番、8番、37番、は昭和42年12月10日、11番、35番は43年2月25日、9番は43年9月29日から廃止された。25番は昭和43年3月31日に須田町まで短縮され、同年9月29日に廃止された。
日比谷交差点
昭和20年9月、米軍のGHQ本部が第1生命相互ビルに置かれ、ここでマッカーサーが最高司令官として、戦後処理の総指揮をとった。彼はパイプを片手に、正面玄関に姿を現し、どこかへ出かける所だった。ブルーに5つ星を染めぬいた小旗を翻しながら、キャでラックは去っていったが、さほど警備員がついていないのが以外であった。今時の、何処そこの大臣の方が、よほど過剰警備なのである。
アメリカから教わった自由と民主主義、あの当時の、透明な平等観や公平観に感動したときの事が、懐かしく思われる。戦いに敗れた後の自信のなかったわれわれのほうが、現在よりよほど、物事を正面から眺められたようだ。
日比谷は、江戸時代直後からそれほど変わっていないが、第1生命相互ビル、三信ビル、角の平和生命会館は、戦前からの建物だったが、その隣りの日活国際会館は、戦後いち早く、潜函方式で建てられたビルであるが、数寄屋橋辺りにかけて再開発され始めている。