7系統:(品川駅前―四谷3丁目)
総距離8.321km
品川駅前-高輪北町-泉岳寺-伊皿子-魚籃坂下-古川橋-四ノ橋-光林寺-天現寺橋-
広尾橋-赤十字病院-霞町-墓地下-南町1丁目-青山1丁目-権田原-信濃町-
左門町-四谷3丁目
開通 T 8. 9
廃止 S 44. 3
品川
ここは東京でも最も古い品川ステーションである。明治5年5月に、横浜桜木町〜品川間に最初の蒸気機関車が往復したときに始まる。
明治18年には、山手線の元祖が赤羽からここに通じた。その上、東京の路面電車の元祖が品川〜新橋間に、約100年前には、ここから出発していた。東京の乗り物の先駆けは品川からといえる。
明治、いやつい戦前までは、海が駅近くまで入り込んでいて、青い海に、お台場の石垣がくっきりと浮いて見えた。
品川といえば、泉岳寺、東京見物にきた人は必ず詣でたから、想い出の額絵にもこうしてかかれている。
泉岳寺
雪の魚籃坂を撮影した帰り、雪の高輪泉岳寺をも・・・・・・・・・と伊皿子から汐見坂を下りて来たが、もう、すっかり日が沈んで、雪を頂いた山門だけが辺りの夕闇に暮れ残ったいた。
「高縄」と書かず「高輪」と書いてあっても、殆どの人が正しく「たかなわ」と、読めるほど、昔から人々に知られている。萬松山泉岳寺は、播州赤穂の浅野家の菩提所であった所から、主君のそばに47士も眠ることとなった。画家の日野耕之祐は、「東京百景」(昭和42年刊)でこう述べている。
「いまは知らないが、戦前は地方から東京に出てくると、必ず1度は泉岳寺に参ったものである。30年前、僕も九州から出てきてすぐ父につれられていったことがある。(中略)本堂は第2次大戰の戦災で燃えて昭和28年に再建、未だ新しい。山門は天保年間に建てられたものだそうだが、時代色がついていて風格がある。楼上に極彩色の16羅漢像が安置してあって、階下の天井には関義則という人の青銅の龍のレリーフがはめ込まれている。絵でない所がミソである。山門を入って右の所に等身大の大石内蔵助の銅像が立っている」
元禄15年12月14日、本所松坂町の吉良邸に押し入った大石内蔵助以下赤穂浪士は、首尾よく吉良上野介を討ち取った。芝居や講談では雪が降っていることになっているが、実際にはどうも雪は降っていなかったらしい。
元禄15年12月14日は、現在の太陽暦では1月の大寒の頃、雪が降っても不思議は無いし、舞台に花を添えるものとして雪を降らせている。近頃12月14日には、高輪ホテルを始め、近くの会社員が47士の装束で銀座まで行進をしているが、昨今では本所松坂町の方でも、吉良上野介だけが悪くはないと、吉良方の行列も行われるようになった。
大正8年9月18日、この写真の汐見坂を、伊皿子から坂下の泉岳寺前までの線路が完成し、品川線に合流する、『11』番、四谷塩町(四谷3丁目)〜泉岳寺前が開通した。大正12年には、『11』番は品川駅前まで直通運転された。
昭和5年までの昭和初期は、『9』番、四谷塩町〜品川駅前となる。翌6年の改正で『9』番から『3』番と変更される。戦後は、『7』番、四谷3丁目〜品川駅となったが、昭和42ねん12月10日からは、四谷3丁目〜泉岳寺前に短縮の後、昭和44年10月26日から廃止された。一方、『1』番の方は泉岳寺前は、明治36年8月22日に品川八ッ山〜新橋間が開通した時に始まる。東京電車鉄道線の最古参の線で、八ッ山、八ッ山交番前、品川ステーション前、東禅寺、庚申堂、泉岳寺、いさらご、札に辻、田町、薩摩原(三田)、芝橋、金杉2丁目、金杉橋、大門、宇田川町、霜月町、源助町、しばぐち、新橋と続いていた。大正3年から昭和42年12月10日の廃止の時まで、徹頭徹尾『1』番を通した名門コースであった。
都電の系統数は、昭和25年には38系統まででした。最終段階の39・40系統は、昭和28年に、最後の41系統は、志村坂上から志村橋まで線路が敷設された昭和30年でした。
(1)木造から半鋼製
木造四輪単車で発足した東京の路面電車も、半鋼製ボギー車が主力となった。動力源である電気の集電方式も、当初は2本ポールを使用していたが、これが一本となり、次ぎにはビューゲルとなった。
これは、変電所から送られる直流電気のマイナス側の、変電所への帰し方が、従来のポール・架線方式から、レールを経由してと変わったためである。
又、ポールのビューゲルへの改良は、ポールでは分岐点で乗務員が操作をしなければならず、ビューゲル化でこの手間が省け、架線の断線事故も減少し電車運行の信頼性が向上した。
最盛期の都電は、1日180万人近いお客様を運んだが、現在は荒川線のみとなり、1日の輪送人員は6万人程度となっている。
(2) ポールからビューゲルに
都電は、直流の電気で走ります。従ってプラスとマイナスの2本の架線が必要で、初期の電車は、2本の架線に対応するために2本のポールを必要とした。その後マイナス側はレールを利用する事でポールも一本になった。ポールがビューゲルになるのは、昭和24年から、パンタグラフを装着した”PCCカー”が走ったのは昭和28年でした
海と運河に囲まれた芝浦工場は船路橋を渡った先にあった“島”だった。大正9年(1920年)10月この場所に東京市電気局の工場の支場が設置されたのが始まりで、その後関東大震災で浜松町と本所にあった工場が被災したため全施設が芝浦に移された。都電の電車の修繕・改修を手がけ、終戦直後は戦災車の復興を手がけ昭和30年代頃は新性能車の開発なども手がけ無軌条電車の修繕も手がけていた。
昭和40年代都電の廃止とともに規模が縮小され、都電廃止後は自動車工場として都バスの修繕を行っていたが平成3年合理化により工場が移転その後跡地は再開発の計画が進められている。
今も敷地跡は海が多少遠のいたものの、東京モノレールとゆりかもめに挟まれ運河に囲まれた“島”になっている。そんな“島”へかつての入り口が船路橋だった、JR山手線の田町の駅から海へ向かいモノレール沿いの運河を渡った先の交差点の奥に船路橋はまだ残されていた、橋の上の路面には2本のレールが鈍い輝きを放っている。周囲をビルや倉庫の建物に囲まれた橋の向こうの“島”は再開発が進んでいるようだ、橋の方向から振り返ると交差点を越えてかつて工場入りする電車が通った通りが金杉橋方向に真っ直ぐに続いていて、その方向に橋からのびた線路がアスファルトの中へ消えていた。
船路橋の下には繋がれた船がゆったりと揺れ立入禁止の橋の上には水鳥が羽を休め喧噪のなかでゆっくりと時が流れているように見えた、しかし都電の歴史を秘めてきた橋も傍らに立つ再開発の計画書によれば早晩消える運命にあるようだ。
魚籃坂周辺
坂の途中に魚籃坂があることによってこの名前がある。ご本尊の魚籃観音は高さ約30cmほど、お寺の入り口には赤門がある。
四谷3丁目を振り出しに、『7』番の品川駅へ向う都電は、古川橋を渡って魚籃坂下の停留場で、『4』番、『5』番と出合い、この坂は東京都内でも指折りの急坂で長い距離があるが、この坂を都電は、「えっちらおっちら」と上がっていた。坂の両側は、戦災を免れたので、漆黒の屋根瓦が小気味よく連なり、落ち着いた山手の住宅街だった事を証明している。
また、周辺の傾斜地には、由緒あるお寺が多く、その中に慶長4年に開基された水野忠重の菩提寺、常林寺がある。常林寺は昨年(昭和61年)末に落成式が行われたが、格式の高い、ケヤキ造りで今時全国でも珍しいケース。ご本山、永平寺の喜びもこの上なかったという。
その境内にスクラッチボードの鬼才、前田浩利氏の住まいがある。前田氏は、昨年7月にボストンで行われた「世界鉄道美術展」にスクラッチとエッチングの作品を出品し、大好評を受け、世界鉄道美術家協会の名誉あるメンバーになられた。東洋初の快挙である。
三角交差点の古川橋
東京に川といえば、隅田川は別として、神田川、日本橋川、音無川、古川窓があるが、都電が川筋に沿って離れず、長い距離を走っているのは古川だけだ。
金杉橋から渋谷駅まで古川の流れと共に、『34』番の電車が走っている。それに金杉橋から『4』番が加わり、芝園橋から『5』番、赤羽橋から(8)番が、そして逆の方向の天現寺橋からは、『7』番が合流する。一ノ橋、ニノ橋、三ノ橋と来て、その次は四ノ橋とはならない。間に古川橋が架けられている。
古川橋は、麻布と芝、五反田、目黒とを結ぶ大切な架け橋になっている。この橋の交差点は三角形の変形交差点で、神田の小川町の三角交差点と全く同じように、三方の方角から来る電車がある。だから、ここの転轍手はとても忙しい。東西の方向に『8』番、『34』番が直進し、東からは『4』番、『5』番がこれに混じって来て左折する。西からは『7』番右折する。南からは『4』番、『5』番が右に、(7)番が左にポイントを切るので、信号塔の人は片時も気を許せない。『34』番が渋谷駅から来て古川橋で折返す時には、延長上のレールでは折返していた。
この古川橋附近は、戦前から自動車の修理工場が多く、ここと溜池周辺附近には自動車関係の仕事をしている店が多い。麻布の方から古川橋を渡ると、魚籃坂下に向い、道幅が狭く、両側の木造家屋は、関東大震災にも第2次大戦の戦災にも残ったものである。夕方になると、白い割烹着をかけた買物客で賑わう商店街に、戦前の旧東京の感じが残っていた。
ところが今では、古川橋から清正公前にかけての道は、その延長上の二本榎から五反田にかけての広い道幅となって、全く以前の面影を留めていない。この鉄の橋がどの辺に架っていたのか、両側の木造の商家が建っていた所は、果たしてどの辺りなのであろうか。この写真の原型を辿るのはとても難しいほどの変わりようである。
明治41年12月29日、四ノ橋〜一ノ橋間が開通したときに古川橋に電車は通ったが、橋を渡る線路は、大正2年9月13日に、古川橋から白金の郡市境界まで開通した。大正3年には『11』番、金杉橋〜目黒ステーション前が走る。
昭和5年の全盛期には、『5』番、白金猿町〜金杉橋、『6』番、目黒駅前〜金杉橋、『7』番目黒駅前〜東京駅、『9』番、四谷塩町〜品川駅前が、古川橋を渡った。翌6年に、『5』番が『4』番に『6』番は廃止、『7』番が『5』番に、『9』番が『3』番に変更された。
戦後は、『4』番、銀座2丁目〜五反田駅、『5』番、永代橋〜目黒駅、『7』番、四谷3丁目〜品川駅となる。『4』番、『5』番は昭和42年12月10日から、『7』番は昭和42年12月10日から泉岳寺までに短縮の後、昭和44年10月26日から廃止となる。
広尾電車営業所跡
33系統は営業所(広尾営業所)の前を通らない路線でした、停留所の名前に車庫前というのは無く、営業所(車庫)前の停留所名は「天現寺橋」でした。
現在の都営バス天現寺橋(都06・品97・86・黒77)、及び広尾病院前(都06)停留所が近くにある天現寺交差点の一角には、昭和44年10月頃まで都電の「広尾電車営業所」がありました。受け持っていた系統は7系統(四谷3丁目ー天現寺橋ー品川駅前)、8系統(中目黒ー桜田門ー築地) 33系統(四谷3丁目ー六本木ー浜松町1丁目)、34系統(渋谷駅前ー古川橋ー金杉橋)でした。現在、営業所跡地には都営アパートが建っていて、当時の面影を忍ぶことはできませんが、アパート横にある公園の一角に、画像(上)の案内板があり、ここが都電の営業所であったことが書かれています。
なお、下の画像は現在建っている都営アパートの全景で、アパートの右側の道の奥が西麻布方向。手前の道が明治通りで左が渋谷方向です。
東京タワーなんて何時でも登れると思っているうちに、1/4世紀も経ってしまった。
昭和33年の12月23日に開業された東京タワーは地上から333メートル、海抜なら356メートルであり、地上からの高さでもパリのエッフェル塔より高い。
東京タワ-と都電を一緒に撮れる場所は、赤羽橋、金杉橋、三河台町などがあったが、ここ飯倉片町の旧郵政省の前からの眺めが最も良かった。
右側はソ連大使館、道路の真中で、しゃがんで写真を撮るので、休日のお昼前を狙った。『33』番の系統板は、『11』番、『22』番と共に並び数字の中では最も恰好がよかった。
外苑西通りと明治通りが交差する地下鉄日比谷線広尾駅近くの天現寺橋交差点の一角にかつて広尾車庫は在り車庫に隣接する電停は天現寺橋で唯一車庫のある営業所と電停の名前が異なる場所だった。開設は大正3年(1914年)9月28日で戦後は7・8・33・34系統を運行、8系統が昭和42年(1967)12月9廃止され残る7・33・34系統が昭和44年(1969)10月25日に廃止され役目を終えた。天現寺橋から渋谷橋・渋谷駅・中目黒方面の路線はかつて玉川線の路線で昭和13年10月当時の東京市に受託され昭和23年(1948)3月10日譲受された路線だった、また外苑西通恵比寿方面へは昭和19年まで恵比寿長者丸線と呼ばれる支線が運行されていたようだ。車庫のあった辺りは現在都営アパートと公園となっていて、公園の中に小さな説明の看板があるだけで車庫のあった面影は残っていない。
左の古ぼけた建物には(広尾電車営業所)と立て札があるが、停留場名は天現寺橋となっていた。写真の外の右角に多聞山天現寺があることによる。
ここから左への渋谷駅や中目黒への線路は、かっての玉川電車のもので、昭和13年11月から市電になった。
品川駅前で下り返して来た『7』番の電車は、ここから霞町(西麻布)に向って行く。
高層ビルの街青山1丁目
青一こと青山1丁目は、現在は北青山1丁目と改称されているが、以前ここは都電王国の一つになっていた。
オリンピック東京大会の総合競技場に近いので、昭和38年をピークに、周辺の道路が拡幅され、したがって、かってここから三宅坂へ向っていた『9』番、『10』番が、それぞれ街青山1丁目で曲がって、『9』は六本木経由溜池へ、『10』番は、四谷3丁目経由九段上へと経路が変更された。だから西南角の信号塔には、最後までポイントマンが上に乗って操作していた。
青山1丁目の交差点の東北は、青山御所の広々とした緑の空間があるが、他の三方は凡て、高層ビルに衣替えした。西北は三越ショッピングセンター、西南はホンダの本社ビル、東南は青山ツインビルが建っている。麻布と赤坂と渋谷への門戸の位置にあるだけに、青山1丁目への若者の足は増えつつある。
青山ツインビルの地下には、青山周辺に関する歴史的資料が展示されている。この辺りは、もともと郡上八幡城主青山氏の屋敷地であった所からこの名がついた。
青山通り
明治神宮外苑の、絵画館前の通りを挟んでの、前後を紹介します。11月中旬ともなると、絵画館通りの大銀杏がすっかり黄ばんで、木枯らしに、銀杏吹雪を散らす。青山なんていうところは、昔は、山手の落ち着いた電車道で、陸軍の偉い人や外国人とか、お邸住まいの人たちの散歩道、買物の道だったが、今や、東京オリンピックの競技場に近いことから、戦後、都内で最も早くから道路を拡げられた。また、車優先の歩道橋の取り付けも先鞭をつけた。ことに青山3丁目の歩道橋は、五反田駅そば第2京浜国道の歩道橋が最も早いといわれるが、その次くらいではないだろうか。
昨今、修学旅行で上京する、中学生や高校生の人気のあるスポットとして、原宿、表参道、青山通りなどが上位を占めていると聞く。
青山とは、緑が多いからそう呼ぶのではなく、青山1丁目から西南一帯に、郡上八幡城主、青山氏の屋敷があったから、地名となった。東京に古くから住んでいる人にはお馴染みの、第1師範があって、青山師範(略称青師)と呼んで親しまれていた。現在の東京学芸大学の前身である。青山学院大学の方は、現在もシティ派の大学として青山通りに頑張っている。都立青山高校は、昔は府立15中として、昭和16年に発足。また、青山南町には、青南小学校という名門の小学校があって、昔は府立一中(日比谷高校)第3高女(駒場高校)への登竜門的存在だった。麻布中学校へも勿論、相当数が合格した。
さて、この青山通りだが、六本木と並んで、英語やローマ字の横文字の看板が多いのが目に付く。REGENCY BIG & TALL CLASSICAL ART CHINA AOYAMA SHOP IN SHOPSとかである。
青山通りは、ブティック、美容院、ケーキ屋、いや、こんな野暮ないい方をして笑われる。コンディトライ、コンフェクショナリィ、とか
TEA HOUSE とかが多い。近頃のブティックの品物の展示の仕方がまたふるっている。四角い広いスペースの周囲に、木製の棚があって洋服やセーター、トローサーズなどが行儀宜しく並び、だだっ広いど真ん中に、まるで工作室の作業台みたいな大きな机を置いて、その上、まるで解剖ゴッコをしたのと同じ様に、帽子、上着、トローサーズ、靴下、靴までが展開して並べてある。売っている男女も、黒かグレイか白のルックで、男も女もダブダブのスーツを着て、頭髪は断髪もどき、これこそ「ナウイ」「イマイ」とでもいうのだろうが、こういうお店がズラリとならんでいる。歩きながら口にするにはフライドチキンやクレープやアイスクリーム、こういうファッションの世ともなれば面目躍如としてきたのが、この青山通りである。ただ、この通りが賑やかな感じなのは、銀行だの、貸しビルだのが全階を占めていなくて、道路に面したところが、お店であるからなのだろう。日曜日にはこの通りは駐車違反が多く、都バス愛用者には、バス停が目立たなくて乗り降りに苦労する事がある。マイカーのエゴが野放し同然なのは許せない。
みどり広い権田原
中央線信濃町駅南口にある歩道から眺めると、実に緑の多い、空の広いヴィスタである。左側に明治記念館、都営青山アパート、青山高校(旧陸軍大学校)と続くところ、都内でも有数の緑地空間である。
かっては、明治神宮外苑一帯は陸軍の用地で、青山の兵営と練兵場(明治4年に日比谷に置かれた東京鎮台がここに移った)が連なり、元々緑の多い空間だった。明治天皇の崩御後、明治神宮及び外苑が出来、陸軍は世田谷方面に移動した。慶応義塾大学の医学部は、輜重(しちょう)兵第1大隊の跡地に、北里柴三郎博士が、大正2年に開設したのに始まる。
「青山の兵隊さん、お弁当つけて 何処行くの・・・・・」と我々が口にした文句の通り、この辺りは明治時代の陸軍の名残である。電車の停留場は権田原(ごんだわら)と呼ぶ。左側手前は昔は赤坂区権田原町と呼んでいた。徳川氏入府後この辺りに権太隼人が住んでいたので、権太原、権太坂という地名が出来た。
遥かに、青山ツインビルがアクセントを添えた以外、変わらない貴重な景観であるが、都電全盛時代から、道路拡幅工事が行われていた。今や東京は過剰防備都市で、どこでも集会、催しがあれば警察の装甲車や機動隊が配備されものものしい警戒だ。
新宿通り四谷
東京の山の手にあって、四谷ほど多面的な顔を持った町も珍しい。中央線の四ツ谷駅は、名前が全国に知れ渡っているのにマッチ箱みたいな1階建のつつましいたたずまいがいいではないか。駅の出札口を出ると北側に、かっての四谷御門の石垣と、その上に空を圧するばかりの大きなケヤキが、江戸時代から明治・大正・昭和の戦前戦後の四谷の変遷を眺めてきた生証人として、健やかに昔を蘇らせる。
南をを振り向けば、旧赤坂離宮の迎賓館で、内部はベルサイユ宮殿、外部はバッキンガム宮殿をお手本として造ったというだけあって、あの鉄門の模様越しに眺めると、西欧にいるようだ。加えて、上智大学の聖イグナチオ教会、その対岸の雙葉学園の古い赤煉瓦の門柱なども、洒落た雰囲気だ。黒いヴェールをかぶったシスター何人も歩いている四谷には、中央出版やドンボスコ書店など、聖書を扱う店がある。
一方、この四谷は江戸時代から、甲州・青梅方面への重要な通り道、昔は四谷2丁目を四谷伝馬町と呼んだことによっても知られる。四谷1丁目と四谷2丁目のニュー上野ビルの横町は「四谷大横町」といって、明治・大正の頃の夜の賑わいは、昼をも欺くかとばかりで、飲食店.や寄席で東京中の盛り場の一つに数えられた。その西奥には「津の守」という三業地があって、これは旧幕の頃、松平摂津の守の屋敷地だったのを明治から一帯を花柳界とした。中には、信じられないほどの窪地と崖から落ちる新滝があり、東京の娯楽センターとして知られていた。近くには岩井半四郎をはじめ、咄家などが住んでいて、四谷はなかなか江戸的な粋な面をも合わせ持っている町である。
佃煮の有明家、うなぎのさぬき屋を始め、元は箪笥町というのが北の並行した通りを中心にあって、加賀安箪笥店はその名残である。漫画家西川辰美さんの実家である。江戸城中への御用達であったから、四谷の箪笥町は、下谷、小石川、牛込、赤坂の箪笥町とは異なって、御箪笥町と御の字がくっついていた。
昭和41・2年、都電の写真を撮りまくっていた頃には、四谷の通りも軒の低い静かな落ち着いた街並みだった。昭和47年頃には、もう拡幅の前ぶれで所々で店の面を引っ込めて新築しているところが目立った。でも、その頃は今日のように土地ブローカーが暗躍する事もなく各自のお店が、工夫して後ろに引っ込めたり、同じならびに工面して移動したりして東京都の行政に合わせていた時代だった。四谷の北側の通りを昭和47年としょうわ57年で比較すると、かっては33棟で合計75階だったのが10年後には、21棟で90階と棟数は減って合計階数が増えている。1棟平均2.26階から、3.80階と高くなっている。
この四谷1丁目辺りから四谷3丁目、大木戸へかけては、やっと最近拡幅が完成して通行が始まった。今流行の一つの典型である。
拡幅される四谷3丁目
皇居の西の玄関、半蔵門から一直線に新宿に向う道は、新宿追分で甲州への道と青梅への道の2つに分かれる。都内では青山通りが戦後の拡幅の元祖で、この四谷はその次ぎの口だ。それでも昭和47年ごろには、もう拡幅が始まっていたのに、完全に通行できるようになったのは最近の事だ。
私がたまに食べに寄る天ぷらの天春の小黒邦彦さん(昭和12生)は、四谷についてこう語る。「うちが店を開いたのが昭和5年です。四谷という所は最初はなかなか土地っ子扱いをして呉れないが、馴れると今度はとても良くしてくれるんですよ。こうして高いビルが増えちゃうと、大家さんは1階にいないで上の方に住んじゃうんです。昔は道路からよしず越しに声を掛け合えたんで人間関係がうまくいってたんですね。そういう下町っぽい四谷のいい所が段々と薄らいじゃって、物足りませんねぇ」
四谷3丁目の都電は、『7』番は品川駅へ、『10』番は左折して渋谷駅へ、『12』番は新宿駅へ『33』番は浜松町1丁目へ通っていた。
四谷3丁目を通る新宿通りは、大幅に広げられたので、昔の交差点の角地は、現在では大通りの真ん中近くの位置だろう。ビルは増えたが道路が広くなったのでかえって空が大きくなったのは信じ難い事実だ。