3系統(品川駅前―飯田橋)

 






総距離10.331km

品川駅前-高輪北町-泉岳寺-田町9丁目- 札の辻-三田2丁目-慶応義塾-赤羽橋-
飯倉4丁目-飯倉1丁目-神谷町-巴町-虎ノ門-溜池-山王下-赤坂見附-若葉1丁目
-四谷見附-本塩町-市ヶ谷見附-新見附
-牛込見附-飯田橋

開通 M45. 6

廃止 S42.12

品川

ここは東京でも最も古い品川ステーションである。明治5年5月に、横浜桜木町〜品川間に最初の蒸気機関車が往復したときに始まる。
 明治18年には、山手線の元祖が赤羽からここに通じた。その上、東京の路面電車の元祖が品川〜新橋間に、約100年前には、ここから出発していた。東京の乗り物の先駆けは品川からといえる。
 明治、いやつい戦前までは、海が駅近くまで入り込んでいて、青い海に、お台場の石垣がくっきりと浮いて見えた。
品川といえば、泉岳寺、東京見物にきた人は必ず詣でたから、想い出の額絵にもこうしてかかれている。

泉岳寺

 雪の魚籃坂を撮影した帰り、雪の高輪泉岳寺をも・・・・・・・・・と伊皿子から汐見坂を下りて来たが、もう、すっかり日が沈んで、雪を頂いた山門だけが辺りの夕闇に暮れ残ったいた。
 「高縄」と書かず「高輪」と書いてあっても、殆どの人が正しく「たかなわ」と、読めるほど、昔から人々に知られている。萬松山泉岳寺は、播州赤穂の浅野家の菩提所であった所から、主君のそばに47士も眠ることとなった。画家の日野耕之祐は、「東京百景」(昭和42年刊)でこう述べている。
 「いまは知らないが、戦前は地方から東京に出てくると、必ず1度は泉岳寺に参ったものである。30年前、僕も九州から出てきてすぐ父につれられていったことがある。(中略)本堂は第2次大戰の戦災で燃えて昭和28年に再建、未だ新しい。山門は天保年間に建てられたものだそうだが、時代色がついていて風格がある。楼上に極彩色の16羅漢像が安置してあって、階下の天井には関義則という人の青銅の龍のレリーフがはめ込まれている。絵でない所がミソである。山門を入って右の所に等身大の大石内蔵助の銅像が立っている」
 元禄15年12月14日、本所松坂町の吉良邸に押し入った大石内蔵助以下赤穂浪士は、首尾よく吉良上野介を討ち取った。芝居や講談では雪が降っていることになっているが、実際にはどうも雪は降っていなかったらしい。
 元禄15年12月14日は、現在の太陽暦では1月の大寒の頃、雪が降っても不思議は無いし、舞台に花を添えるものとして雪を降らせている。近頃12月14日には、高輪ホテルを始め、近くの会社員が47士の装束で銀座まで行進をしているが、昨今では本所松坂町の方でも、吉良上野介だけが悪くはないと、吉良方の行列も行われるようになった。
 大正8年9月18日、この写真の汐見坂を、伊皿子から坂下の泉岳寺前までの線路が完成し、品川線に合流する、『11』番、四谷塩町(四谷3丁目)〜泉岳寺前が開通した。大正12年には、『11』番は品川駅前まで直通運転された。
 昭和5年までの昭和初期は、『9』番、四谷塩町〜品川駅前となる。翌6年の改正で『9』番から『3』番と変更される。戦後は、『7』番、四谷3丁目〜品川駅となったが、昭和42年12月10日からは、四谷3丁目〜泉岳寺前に短縮の後、昭和44年10月26日から廃止された。一方、『1』番の方は泉岳寺前は、明治36年8月22日に品川八ッ山〜新橋間が開通した時に始まる。東京電車鉄道線の最古参の線で、八ッ山、八ッ山交番前、品川ステーション前、東禅寺、庚申堂、泉岳寺、いさらご、札の辻、田町、薩摩原(三田)、芝橋、金杉2丁目、金杉橋、大門、宇田川町、霜月町、源助町、しばぐち、新橋と続いていた。大正3年から昭和42年12月10日の廃止の時まで、徹頭徹尾『1』番を通した名門コースであった。
 四谷見附から右手に赤坂離宮を眺めながら、紀伊国坂に沿って弁慶橋に下って行く線路は、明治の昔の外濠線の名残で、喰違見附のトンネルは、都電唯一のものとして人気があった。
 東京オリンピックの前年、高速道路がここを通るため、名物のトンネルは取り壊されて、その上に、珍しい単線の専用軌道が作られた。上の架線も明治調で特色があった。

三田から神谷町

 ★三田の台地上にある、慶応義塾大学の東門からの眺めは、都内で最も贅沢な部類に属する。創立50周年を記念して建てられた、半ばゴシック式の赤煉瓦の図書館と、門の左側には天保頃からの漆黒の土蔵造りが重々しく影を印していた。多田味噌店の土蔵だった。
 50年以上前の空からの写真でも、赤羽橋の上に、貯金局、都立第6高女(三田高校)、三井クラブなどが、緑の樹々の間に美しいレイアウトで配置され、その南に慶応義塾がある。周囲には戦災を免れた黒々とした屋根瓦が残っている。慶応ボーイは、東門のことを「幻の門」と呼び習わしてきた。
 20年経った冬「幻の門」の中からレンズを覗くと、多田屋の土蔵は既になく、それでも跡地は高層ビルではなく、更地のままだったからほっとした。
 近くの鳥羽帽子店の3代目の佐藤栄男さんに話を聞く。と「うちは大正2年から90年も慶応の制帽を凡て手作りでやって来たんですが、最近じゃ、運動部や応援部の学生くらいしか、制服制帽を作らないから寂しいですよ。昔は新学期には3,000個も作ったんですよ。慶応の帽子はドスキンを使うところが特色ですよ」

 ★古川に沿った都電に乗っている時が、一番東京にいるという感じがした。一ノ橋、ニノ橋、三ノ橋、古川橋、四ノ橋なんて、停留場名を告げる車掌の方も楽しそうだった。
 古川橋から北、麻布十番一ノ橋にかけて空撮写真を見ると戦火を蒙(こうむ)った跡が白々と写っているが、南の方は黒々とした瓦葺の民家がひしめいている。
 古川橋から魚籃坂下にかけて、道路がこんなに拡幅されてしまった。一体全体、どこに立ったらよいのやら迷っていたら、向いの路上で店先の掃除をされていた、山崎文具店の山崎美富子さんが、「うちは大正3年に店開きしたといいますから、80年以上ここにいますが、拡幅前のお店はちょうど中央分離帯の辺りでしょう」と教えてくれました。
 久しぶりに尋ねて来たんでは、昔の通りがこれほど変革してたら、昔を知っている人でも、信じ難い街並みである。古川橋から魚籃坂下への眺め、この路線は、『5』番、目黒駅〜永代橋と、『4』番、五反田駅〜銀座が利用していた。右側(下り車線)にあった家屋が大幅に取り壊され、清正公前への幅広い道路が貫通した。

 ★東京の城南にあって、ぽつんと高い愛宕山、あの86段 の男坂はよほど勾配がきついとみえて、空中写真では極く短く写っている。その右に曲線の女坂が優しく浮き出ている。愛宕山のトンネルは、もちろん空からは見えないが、トンネルを出た道を西にそのまま来ると、西久保巴町になる。杉田玄白の菩提寺真福寺の四角い屋根瓦が光って見える。この辺り戦災を免れた古い家並みが続いている。芝増上寺から続く寺院の多い町で、また表通りには、茶道具や美術品を扱う店が多い。西久保巴町、今や虎ノ門3丁目。
 この辺り、かっての芝区で、今は港区なのだが、芝はやはり下町の顔と山手の顔との両面を持っている。私は戦前の面影残る西久保巴町が好きで、何度か撮影に来た。この東側に、巴町の砂場というそば屋があって、特にとろろそばは他の追従を許さないものを持っている。
 20年後の対比写真を撮り比べると、昔ながらの歩道橋の上に立てば、古い家々がどんどん建てかえられて、昔を偲ぶよすがもない。一度9月に来た時には、街路樹が茂っていて、街並みがうまく表現できないので、お正月休みにやって来た。うそみたいな静けさだ。

 ★都電王国虎ノ門から南へ、飯倉1丁目に向う途中に神谷町はある。航空写真では神谷町の東南の高台にあるオランダ大使館とその地続きの芝浄水場の平面が大きく目立っている。西北の方には大倉邸(ホテルオークラ・大倉集古館)の空間がよくわかる。
 飯田橋から都電『3』番が品川駅に向っていた。四谷3丁目から浜松町1丁目へ向う『33』番の電車がここで曲がっていたので、ポイントの切り替えをする信号塔が残っていた。東南角の山口病院の植込みには、白樺が数本立っていたのを想い出す。
 神谷町もご多分にもれず、虎ノ門4丁目などという、愚かにもつかない町名になってしまっているが、数字には個性がないから、4丁目とも6丁目とも区別がつき難い。営団地下鉄は、日比谷線神谷町駅のままである。地上には神谷町は存在しないが、利用者はこの方が解り易いということを実証してみせてくれている。地下鉄はここの他にも、田原町、稲荷町、末広町とか、昔の町名をちゃんと残してある。余り統一的態度ではないが、都バスの停留場名は、神谷町駅前と、地下鉄便乗型だ。町名改正はもう御免だ。
 神谷町の右上は、江戸見坂上のホテル・オークラのある霊南坂の続く台地で、左は芝の切通坂から御成門、浜松町1丁目に出る、今や地価高騰の只中にある。
 本当は、愛宕山のトンネルをくぐって、西に出たところで、震災にも焼けなかった、瓦葺きの日本家屋が建ち並ぶ、旧芝区の中で、桜川町、廣町、西久保巴町と共にしっとりとした家々が、つつましく軒を寄せ合って暮らしてきた所である。
 神谷町は分岐点だったので、信号塔があったが、これは、飯倉1丁目方面から来る『3』番と、『33』番を識別分岐するためであった。『3』番は虎ノ門へ直進するが、『33』番はここで右折して、浜松町1丁目へ向けて進んでいた。廃止前数年間は、ポイントマンが不要のオートマチックになっていた。架線上のコンデンサーが二つ並んでいて、直進の電車『3』番は、二つをパタンパタンとビューゲルで叩く。この時はレールのポイントは右折用に割れない。ところが、曲がる必要のある『33』番は、まず第1のコンデンサーを叩いたら、いったん停車の位置に停まる。すると、レールが右に割れる。『33』が曲がって進んで行けば、すぐ頭上の架線上に別のコンデンサーが1個あって、それを叩くと、ポイントはもとのに戻るという仕掛けになっていた。
 だが、時たま、都電の直前に車が入って来ると、直進車が、コンデンサーを二つ共続けて叩けないことになる。その場合は、もちろんレールは右折用にセットされてしまう。私は、こういう場面に何度か出くわしたことがあるが、その時には、後ろの車掌が急処降りていって、電柱に取り付けた箱をあけるカギは、実は切符を切るハサミの先端であったのはおもしろいことだった。
 大分脱線したが、神谷町には、地下鉄日比谷線が通っているので、大勢の乗降客が利用している。私はすべての高層ビルが悪いなどといっているのではない。要は、そのビルある周囲の環境と余りにもかけ離れていて、そぐわないビルではよくないということである。そして、そのコミュニティと溶け込んだものであることが望ましい。ビルが増えても、階上に居住者が増えれば、近くのお店も新しいお客が増えることにもつながるし、年中行事のお祭りにも参加する人が存続するからいいが、コミュニティの欠如というのが困る。人の住める町ではなくなるからで、これでは文化の担い手も絶えてしまうではないか。

赤羽橋の火の見櫓

 終戦後の航空写真で港区を見ると、今や最もビルが多い地区なのに、なだ屋根が低かったり、戦災の傷跡が癒えてないことがわかる。東北の緑の多い所が芝増上寺であり、それと斜めの広いスペースは、済生会病院と府立第6高女(現、三田高校)、専売局工場(現、日本たばこ)、三井クラブなどである。済生会病院の土地は、久留米藩主有馬家の屋敷跡で、その中に高い火の見櫓が建っていたのが、広重の絵にも描かれていて、江戸でも知られた火の見櫓であった。
 赤羽橋の火の見櫓は、有馬の日の見櫓と位置は異なるが、遠くから見えた。望楼の東北隅には、半鐘が下がっていた。北風の吹く冬の夜など、望楼に登って勤務に着いていた係員は大変だっただろう。以前は、望楼の回廊をゆっくりゆっくり見張りながら歩いていた係員の姿を見ることができたが、こうビルが増えては、火の見櫓も役に立たず、残っていた火の見櫓も、長いホースを乾かすのに利用されるようになってしまった。

芝の切通坂ほど近く

 浜松町1丁目で折返して来た『33』番の電車は、御成門の交差点を通過すると、やがて緩やかな石畳の坂道にさしかかる。右側は以前、西ノ久保廣町といった。左側は芝高から正則高校に下りる切通坂に通ずる、増上寺と青松寺の間の坂下に出る。今、電車が上っている坂は、元来、無名の坂だが、右側の廣町の崖がなかなかよい。「新切通坂」ともいえそうだ。ここを西に通り抜けると神谷町の合流点である。
 虎の門の方から来た『3』番、『8』番と一緒になって飯倉1丁目の方に行く。この辺り、往古は芝増上寺や青松寺など名刹の土地がもっと広く、坊寺のあった場所である。こういう石畳の坂を電車が通る時、敷き詰めた石を伝わって、車輪の響きが辺りの落ち着いた佇の中に溶け込んで行く。湯島の切通坂、氷川下町(千石3丁目)の猫又坂も、これと似た地形である。
 写真の左側にある宝塚女子旅行会館は、関西から東京公演に来た"ズカ"の生徒達の宿舎である。宝塚音楽学校は、大正2年7月15日、小林一三によって創立されて以来、歌に踊りに劇に数多くのスターを送り出している。物事の真髄に触れるということはさほど簡単な事ではないが、昭和40年代、私は宝塚のスータンこと真帆しぶきの演技に出会って、宝塚歌劇の真髄らしきものに触れることができた。全くこの頃のスータンは素晴らしかった。「私はこの道しかない」という打込んだ姿は、ある時には神がかっていたと、いっても過言ではない。現代、厳しい練習に耐え精進しているのは、宝塚と、ある種のスポーツ選手達だけだろう。宝塚、高校野球、ラグビー、バレーなどに人気が集まる所以である。宝塚女子旅行会館は、昭和47年には恵比寿の方に移ってしまった。
 『33』番の電車は決して幹線ではないが、ちょうど日本列島を横断する鉄道のように、芝から麻布という谷から丘を縫って走る、なかなか小粋な系統線であった。
 明治44年8月1日、御成門から麻布台町まで電車が開通したのに始まる大正3年には、青山車庫所属の『8』番、宇田川町(浜松町1丁目)〜青山1丁目(又は、青山6丁目)間が通る。

芝のだらだら祭り

 「芝で生れて神田で育つ」とは、浪花節の「森の石松」ではないが、芝っ子には江戸っ子としての自負がある。9月11日から21日まで、11日間も長いお祭をやっているのが芝明神様だ。芝のだらだら祭りといわれる所以である。その9月15日が、祭儀のお行なわれる日である。現在は、9月15日は敬老の日として旗日になっているので、1年おきに氏子各町連合渡御がある。芝プリンスホテル前の広場に、33ヶ町の御神輿が正午に集合、午後1時から発進する。
 今、新橋5・6丁目の御神輿が、集合場所に出かける所だ。新橋5・6丁目町会は、昔の路月町と宇田川町である。横町の神酒所から出てきたばかりなので、まだ担ぐ方も本調子ではないので、その日によって、一緒に担ぐ仲間によって肩がなかなか揃わない。集合地点に行く前に疲れても困るので、こういう時の担ぎは、比較的平担ぎで軽く担いで集合地へ急ぐのが得策である。見せ場はまだ後に控えているのだから、それまで力を溜めておく方がよい。音頭をとっている頭の半天は「め組」である。東都でも、「い組」「は組」と共に人気のある組だ。
 頃は、文か2年、芝明神の境内で四ッ車大八と九竜山の花相撲が催された時、め組の方に挨拶がなかったということから、血の雨を降す大喧嘩にまで発展した。この評判がたちまち江戸中に広がッた。歌舞伎でも「神明恵和合取組(かみのめぐみのわごうとりくみ)」として上演され、5代目菊五郎の演ずる「め組」の辰五郎は、東都の芝居好きをうならせた。「め組」の纏は形がよく、「籠目鼓胴」の纏とも「籠目八ッ花形」の纏ともいわれた。また、「めぐみ」に通ずることから、お正月の縁起物のミニ纏がよく売れる。
 浜松町1丁目で折返したばかりの、本来は『33』番の電車は、北青山1丁目まで行ってから、天現寺橋の広尾車庫に帰るのであろう無番号で出発した。
 明治36年8月22日、東京電車鉄道会社線が東京での最初の電車を、北品川八ッ山〜新橋間に通した時に始まる。この方向には、大正4年5月25日に、御成門〜宇田川町(浜松町1丁目の旧称)に線路が敷けた。この時は、『8』番、宇田川町〜青山1丁目(又は、青山6丁目)間、『1』番、品川〜上野浅草間がここを通っていた。
 昭和に入り5年までは『13』番、四谷塩町(四谷3丁目)〜宇田川町、『1』番、品川〜雷門、『2』番、三田〜吾妻橋西詰、『27』番、神明町〜芝橋、『32』番、南千住〜芝橋間が走る。
 戦後は、『33』番、四谷3丁目〜浜松町1丁目、『1』番、品川駅〜上野駅、『4』番、五反田駅〜銀座間が通る。『1』番、『4』番は昭和42年12月10日、『33』番は昭和44年10月26日から廃止された。

最古参建築の愛宕署

 戦前の東京で目立つ洋風建築は、郵便局、警察署、学校や銀行など、ごく狭い範囲に限られていた。二等郵便局や警察署などは2〜3階建のなかなか個性のある建て方になっていた。戦後20数年も経てみると、それらの建物が一つ一つ消えて行って、近代的な四角っぽいビルに姿を変えてしまった。気がついた時には、指折り数えるほどになっている。警察署では、四谷、深川、南千住、万世橋の各署と愛宕警察署くらいなものだった。愛宕署は以前は芝警察署といっていた。写真の電車は、浜松町1丁目(旧宇田川町)で折返して、これから四谷3丁目に帰る『33』番である。右に玄関の見えるのが愛宕署で、その隣りが芝消防署である。愛宕署は大正15年に建てられたから、半世紀近い風雪に耐えてきたグレーの建物である。
 想い出しても、小平事件、バー・メッカ殺人、連続射殺魔事件などの、犯罪史の残る大事件を扱ってきた。ところが、同署の留置場は僅かに五房だけという、佳き時代の建築では、現在のマンモス東京のど真ん中の犯罪には追いつけないのは当然で、4階建の別館を背後に増築した。壁のねずみ色がなかなか凝っていた愛宕署ではあったが、昭和56年11月に取り壊された。今は、昭和59年の新庁舎完成まで、増上寺境内の仮庁舎に引っ越している。
 この『33』番には、天現寺の広尾車庫所属の8000形が多い。8000形は鉄鋼製の細長い電車で、スピードは出るが、車体が軽いため車輪の響きがもろに室内に伝わり、窓ガラスがガタガタ揺れるので、運転手さんの間でも不評であった。この愛宕署のように、警察署と消防署とが隣り同志に並んでいる所は、本郷の本富士署と、上野署、深川署などがある。
 東京市街鉄道線が、明治37年6月21日、三田〜日比谷間に電車を通した時に始まる。一方、御成門〜麻布台町は明治44年8月1日に開通し、御成門〜宇田川町(浜松町1丁目)間は大正4年5月25日に開通して、御成門は完全な交差点となる。

都電王国の虎ノ門

 虎ノ門は、12支の名前を持つ都内唯一の門だが、その由来は3説もある。太田道灌がここから出陣する時「千里行くとも千里帰るは虎」といったからとも、また、朝鮮から生きた虎を城中に献上する時、檻が余りにも大きいので門を大きくした。3つ目は、地相から、西の方の鎮めとして白虎の方向にある門なので虎ノ門と名付けたという。いずれにしても、江戸城最西南の門であった。
 いくら由緒のある場所でも、都電が複雑に交差していなかったら、ここにはこなかっただろう。東西に6番(新橋〜渋谷駅)、南北に8番(築地〜中目黒)が十文字に交わり、3番(飯田橋〜品川駅)が曲り、9番(浜町中の橋〜渋谷駅)もここで曲がっていたから、交差点内に信号塔が2つも連なっていて、共にポイントマンが登って操作していた。
 赤坂見附、三宅坂、桜田門経由で銀座に向っていた9番が、オリンピック道路の建設で、昭和38年10月1日から、六本木、溜池、虎ノ門〜桜田門という通り方に改められ、都内では唯一の超A級交差点となっていた。この辺り、昔から人の住まない官庁街である。霞ヶ関ビルを背にして、新橋方面を見ると、この通りは早めにビル化が進んでいたため、町並みは、それほど変化していない。ここには、大きな交番もある。

溜池の三色すみれ

 明治の昔、外濠線と呼ばれていた東京電気鉄道会社線は、私営3社の路面電車の中で1番遅れて開業したが、車体は最も立派で、他の2線の運転台は屋根が無く野ざらしであったのに比べ、ちゃんとガラス窓がついていた。ちなみに外濠線の停留所名を赤坂見附から時計廻りにいってみよう。
 赤坂見附ー仲町ー四谷見附ー本村町ー市ケ谷見附ー新見附ー逢坂下ー神楽坂ー飯田橋ー小石川橋ー水道橋ー元町ー順天堂前ー御茶ノ水ー甲賀橋ー駿河台下ー錦町3丁目ー神田橋ー龍閑橋ー常盤橋ー呉服橋ー八重洲橋ー鍜治橋ー西紺屋町ー数寄屋橋ー山下門ー土橋ー新橋ー桜田本郷町ー南佐久間町ー虎の門ー葵橋ー溜池ー山王下
 そして振り出しの赤坂見附に戻る。伝統あるこの線を最も引き継いだのが『3』番で、始発の飯田橋から虎の門までの区間が外濠線の跡である。
 溜池の分岐点では、『6』番が左に曲がって、市三坂(いちみ)を上って六本木に向う。『3』番は溜池から山王下の方に向かう。その分岐点の角に東洋信託銀行があって、その前の三角地帯に洋風の花壇が出来ている。誰が植えたであろうか、三色スミレが一斉に咲いていて、交通の混雑する、この分岐点に一陣の涼風を送っている。
 古い江戸図(延宝図や元禄図)を見ると、「ため池」と記され、かなり大きなスペースで、水をたたえている様子が分かるように、波まで描かれている。明治になっても溜池に水は多く、雨の後などは更に水量が増えて大変だったらしい。普段でも渡し舟が合った位だ。その後、少しずつ埋め立てられて、赤坂田町1丁目から6丁目までになった。恐らく最初は田んぼが多かったのであろう。現代はこの近くには官公署、外交施設、料亭などが多く、ハイヤーの多い所だ。従って、自動車関係の会社や修理工場が多いのは古川橋と似ている。写真にある東芝レコードはつい最近新しいビルになった。
 外濠線の東京電気鉄道が、明治38年10月11日に葵坂から虎ノ門間の開通で溜池を通る。一方、溜池〜六本木間は遅れて、大正14年6月6日となった。
 昭和初期の5年までは、『12』番、青山6丁目〜永代橋と、『40』番、飯田橋〜札の辻、『41』番飯田橋〜三原橋とが合流、分岐していた。翌6年には、『12』番は『7』番に、『40』番は『33』番に、『41』番は『32』番と番号が改正された。昭和15年には『32』番の三原橋行が廃止された。
 戦後は、『3』番、飯田橋〜品川駅、(6)番、渋谷駅〜新橋、そして昭和38年10がつ1ひからは、『9』番が六本木経由となって溜池を通過した。『3』番、『6』番は昭和42年12月10日、『9』番は昭和43年9月29日から廃止となる。

弁慶橋のさくら

 東京ほど水面を粗末にしている町は少ない。眺めて心が和む所は、かろうじて、隅田川と不忍池と外濠くらいしかない。麹町の紀尾井坂を下りると、昔は清水が沸いていた清水谷公園に出る。清水谷から赤坂見附の方に開けた道が外濠を越す時に渡る橋が、この弁慶橋である。紀尾井とは、ここに紀州、尾張、井伊の邸が鼎立(ちょうりつ)していたので、一字ずつとって紀尾井町とし、その坂を紀尾井坂という。紀尾井町には、歌舞伎で大向こうから「よおっ、紀尾井町」と声を掛けられる尾上松緑の邸があり、その隣りが高峰三枝子の邸である。今はその南の方に面してホテル・ニューオータニの新館が建てられている。
 写真の弁慶橋は、木橋に似せた石橋で、擬宝珠が使われている。青銅(からかね)製の擬宝珠は、筋違(すじかえ)橋(萬世橋)と浅草橋に使われていたものを混用している。まるで京都の五条橋のようであるから五条の橋の弁慶だと思われがちだが、このは昔の橋大工の棟梁、弁慶小左衛門の名から来ているというのが正しいようだ。ここの掘りを弁慶掘りといい、橋のたもとにはボート屋もある。春風に誘われて、若い男女がボートを漕ぎ出す姿も見える。擬宝珠の橋と堀の水と桜の花で、いかにも日本の春という感じがする。
 赤坂見附は、東京電気鉄道つまり外濠線の起点で、外濠に沿って環状的に一周していたループ線の元祖が走っていた。『3』番の電車は、飯田橋から四谷見附を経て紀伊国坂を下り、左側に弁慶堀を見下ろしながら赤坂見附にやって来た。さらに溜池から虎の門を右折して、神谷町、赤羽橋、札の辻を通って品川駅前に行っていた。オリンピックの前年までは、青山から『9』番、『10』番の電車が、赤坂見附を通過して三宅坂で左右に別れていたが、その後、それぞれ飯倉経由と四谷経由になった。ここの桜は、今でも花を咲かせてくれるのだろうか。
 東京市街鉄道が明治37年9月6日に、三宅坂〜青山4丁目間に線路を敷いたときに始まる。赤坂見附は、何といっても外濠線の発着点として知られてた。東京電気鉄道が明治38年9月15日に、四谷見附から紀伊国坂を下って赤坂見附を交差し、葵坂まで電車を通した。同年10月11日には葵坂〜虎の門が完結して、外濠線は環状線となった。

赤坂離宮の遠望

 四谷見附のイグナチオ教会の西の道を入って、老松の生える土手の上を暫く歩いて来ると、西の方に、緑青のふいた、ベルサイユ宮殿にも似た美しい西洋建築が見えてきた。迎賓館、または、赤坂離宮と呼び、明治42年6月に片山東熊(とおくま)らの設計によって完成された。戦後の一時期、ここに国会図書館があって、私は金森館長にお会いしに赴いた事がある。大きな鎧門をくぐって、砂利道を歩くと、一種異様な気持ちになった。片山東熊は、辰野金吾、曽禰達蔵、と共に、工部大学校造家学科の第1回の卒業生である。皇居や宮内省専属の設計家で、京都博物館、上野の表慶館を始め、靜岡や沼津の御用邸や、伏見宮邸、山県公爵邸などを設計した。
 ここは、徳川御三家に一つ、紀州徳川家屋敷跡で、西欧的建築に武家屋敷門と長い塀がとても対照的である。ここから左に下る坂は紀伊国坂という。今、紀伊国坂を下りつつある電車は、伝統ある外濠線の『3』番で、オリンピックのために高速道路が出来るまでは、ここにトンネルがあって、都電のトンネルとして人気があった。
 明治38年に出版された(外濠線電車唱歌)に、
  
  34・本村町も早過ぎて   四谷見附に来て見れば
     街鉄電車共用の    線路はいとどわ煩はし
  35・漸く此処を乗切って   進む右手は畏くも
     天皇が離宮なる    赤坂御殿と知れける
  36・左の方を眺むれば   碧も深き濠の面に
     漣寄せて老松の    梢に楽の音を絶ず
  37・青山御所を遥拝し   下る紀伊国坂の下
     雲かあらぬか白栲に  咲も揃はぬ桜花

と、唱われているように、現在、上智大学の野球場になっている所は、以前は満面に水をたたえていた外濠である。今、外濠の土手の老松の根元に腰を下して眺めていると、日本の歩んできた近代化への道程が、圧縮されているように見えてくる。
 明治38年9月15日、東京電気鉄道の外濠線が、四谷見附〜葵橋間に線路を施設したのに始まる。外濠線は赤坂見附を起点に外濠を循環し、赤坂見附、紀伊国坂、学習院前、四谷尾張町、四谷見附と進んで行った。

外濠線、紀伊国坂

江戸時代、内濠と外濠との間は、直参旗本や諸侯の屋敷地であった関係上、明治以降戦中までは、大使館・陸軍用地・官僚の邸宅などが多かった。コの地域も度重なる空襲で、瓦礫の傷跡が航空写真などから伺える。三宅坂の陸軍司令部の敷地や赤坂見附上の閑院宮邸跡には、進駐軍のカマボコ形宿舎が見える。周囲には有刺鉄線を張り巡らし、白ペンキの板には「OFF LIMIT US FORCES ARMY]などと記されていた。
 明治の外濠線の後をもっとも忠実に引き継いだのが『3』番の電車である。紀伊国坂の脇を通るときは、変則的な単線運転で、トンネルをくぐっていた。戦後の航空写真で見ると、途中、レールがトンネルで消えて途切れている。
 ここも、オリンピック東京大会の準備で、高速道路がトンネルの箇所を過ぎる事になリ、名物トンネルは壊され、ご覧の通りの軌道を単線で走っていた。行き違う電車は入口の所のランプで待機したり進行したりしていた。
 昭和42年12月9日を限りとして『3』番は廃止され軌道の上は盛土され、ウメバガシが茂る緑地帯になってしまった。

水温む外濠

 九段上から西に進んでくると、今日でも運がよければ、暮れの方の富士山を拝む事が出来る。その富士見町を過ぎて真直ぐの突き当たりは、中央線の市ケ谷駅である。電車はここでいったん道なりに90度右折して、また、左に曲がって外濠に沿って進んで行く。市ケ谷駅から外濠まで緩やかなスロープになっていて、その左へ曲がるところに貸しボート屋が在る。近頃では三角帆を着けたヨットまで貸している。
 冬の間は堀の水も薄氷なんかが張って、水が重たく静まり返っている。寒さが緩むと春の訪れを告げるように、堀の面が春風に漣(さざなみ)を立てて、柔らかい感じになってくる。水温むとはこのことだろう。貸しボートも春風に靡いて、自然と程よい配置に出来上がるのが面白い。
 この風景、日野耕之祐の「東京百景」(昭和42年刊)を借りれば以下の如し。
「中央線飯田橋と市ケ谷の間、貸しボートが浮かぶ濠端である。町に表と裏の表情あるとすれば、これはまあ明るい表の部分である。青と赤のペンキを塗ったボートに、若い二人が仲良く乗っている。薄暗い喫茶店にいる、ふたりよりは遥かに健康的である。ボートのふたりには、ここは全く外界孤立した世界である。
 不思議なもので、どんなに浅い所でも水の上にいると一種緊張感というか、恐怖感に襲われる。それが二人を一層緊密にしているようである。ところで、濠のこちらが側は電車がひっきりなしに通るし、向う側は車の列である。それにパチンコ屋のジャン〜、ジャラ〜の音まで聞えてくる。水溜りのアメンボ−のようだ」
 地下鉄有楽線の工事の時、すっかり水が涸れてしまったが、「完成後は元通りにしてお返し致します」のプラカードの文句通りに復元した。誠に嬉しい限りだ。
 外濠線の東京電気鉄道会社線が、明治38年8がつ12日に神楽坂〜四谷見附間が開通して、外濠に沿って電車が通った。一方、東京市街鉄道線が、明治39年1月20日、三番町〜市ケ谷間に開通し、この写真の場所は大正9年9月19日に開通した。それまでは、九段上と市ケ谷見附間の短距離運転であった。
 
神楽河岸の酒問屋

 中央線に乗って四谷からお茶の水に向って行くと、左手に外濠が続いて、ボートを浮かべるものや釣り糸を垂れる姿などが見える。早春の頃ともなると土手の菜の花の黄色が鮮やかで、都内でも珍しい所だ。その外濠に沿って走っている電車は、むかしの外濠線で、この伝統ある線は、『3』番が品川駅から飯田橋まで通っていた。もう少しで終点の飯田橋の5叉路に指しかかろうとする所なのに、車の渋滞の真只中で立ち往生だ。方向板は折返すときに直さず、大抵このように予め直してしまう。電車を待つ人は、今度は折返して「品川駅」まで行くのだなということがわかるようになっていた。ここで目立つ建物は、白土蔵と黒土蔵とを持つ酒問屋の升本総本店で、江戸時代からの老舗である。ここ牛込揚場町には、神田川を利用して諸国からの荷を陸揚げした船宿や問屋などが沢山あり、この辺りの河岸を神楽河岸といった。
 明治37年の「新撰東京名所図会」の「牛込区之部」の巻一に「
此地の東は河岸通なれば。茗荷屋、丸屋などいへる船宿あり。1番地には油問屋の小野田。3番地には東京火災保険株式会社の支店。4番地には酒問屋の升本喜平衛。9番地には石鹸製造業の安永鐵造。20番地には高陽館といへる旅人宿あり。而して升本家最も盛大して。其の本宅も同町にありて。庭園など意匠を凝らしたるものにて。稲荷社なども見ゆ」と、出ているから、升本総本店は都内でも有数の老舗であることがわかる。
 都電の沿線に土蔵があったところは、そんなに多くない。麹町4丁目の質屋大和屋、本郷3丁目冠質屋、音羽1丁目の土蔵、中目黒終点の土蔵、根岸の松本小間物店、深川平野町の越前屋酒店の土蔵など、数えるほどしかない。今や、その半分は取り壊されて見ることも出来ない。最近、飯田橋の外濠が埋め立てられて、またまた「水」面積が減った。残念なことである。
 外濠線の東京電気鉄道会社によって、本郷元町から富士見坂を下りて神楽坂までが明治38年5月12日に開通した。続いて、3社合同の東京鉄道時代の明治40年11月28日に、大曲を経て江戸川葉科手が完成して、飯田橋は乗換え地点となる。一方、大正元年12月28日、飯田橋から焼餅坂を下って牛込柳町までが開通したことにより、重要地点となった。大正3年には、『10』番、江東橋〜江戸川橋、『9』番、外濠線の循環線、それに新宿からの『3』番、新宿〜牛込〜万世橋間が通る。
 昭和初期には、5年まで『18』番、角筈〜飯田橋〜万世橋、(19)番、早稲田〜大手町〜日本橋〜洲崎、『22』番、若松町〜お茶の水〜神田橋〜新橋が飯田橋を通っていたが、翌6年から『18』番が『13』番に、『19』番が『14』番に、そして(22)番は改正されて『32』番、飯田橋〜虎の門〜新橋〜三原橋と、『33』番、飯田橋〜虎の門〜札の辻間となった。昭和15年には『32』番は廃止となった。
 戦後は、『15』番、高田馬場駅〜茅場町、『13』番、新宿駅〜水天宮、『3』番、飯田橋〜品川駅となった。『3』番は昭和42年12月10日、『15』番は昭和43年9月29日に廃止、『13』番は昭和43年3月31日岩本町までに短縮の後、昭和45年3月27日から廃止された。

交通の要所飯田橋

都電の重要な停留所で、しかも度々その始発店や折り返し点となるところに、何々橋と橋のつけられる名前が多いことに気づかれるであろう。新橋、日本橋、神田橋、厩橋、天現寺橋、万世橋、そしてこの飯田橋など。
 豊かな水を集めた江戸川が、ここで外濠に落ち込む所を、昔は「どんどん」と呼び習わしていた。水の滝の如く落ちる音響からきた呼び名である。江戸から明治にかけては、この飯田橋のどんどんから船が出ていて、「俗にどんどんと称する所より神田川を下り、お茶の水を経て万世橋へ出て(船賃2銭)これより浅草橋へ出づ(船賃1銭)此早船は交通といふよりも、船遊びに近くお茶の水辺は雪にも月にも宜しく、時鳥(ほととぎす)にも名高し」と、金子春夢の「東京新繁昌記」(明治30年刊)に出ている。
 又、明治22年4月からは、飯田町駅から甲武鉄道線が八王子まで開通した。飯田橋駅は牛込停留場と呼ばれていて、今の飯田橋駅の九段側の入口、つまり牛込見附の石垣の残っている方が駅であった。昭和8年までは、今は貨物駅となっている飯田町駅から、甲府行や松本行、名古屋行が出ていた。昭和8年以降、新宿から長距離列車が出るようになったが、今でも客車の整備などに、よく飯田町駅が使われている。ここは、私がよくいう終着駅の貫禄がある。列車は凡て車止めになっていて、往年の始発駅の姿を偲ぶことが出きる。
 高田馬場から来た『15』番の電車が、茅場町に向って飯田橋を渡ろうとしている。この橋が新宿区と千代田区との境である。飯田橋駅のある南の方は、以前の麹町区で、現在は千代田区になる。その昔、徳川氏入府後、この辺りの人々を田安門内に呼んだところ、家の数は僅かに17軒で、一帯は水田であった。名主の飯田喜平衛からこの地名が出ている。かってここにはロータリーがあって、港区の天現寺、荒川区の宮地、豊島区の池袋と共に、都内でも交通の難所である。
 外濠線は、赤坂見附を起点に外濠に沿って環状線として一周していた。大正3年には、『9』番の番号の電車が外濠線と同じように循環していたが、その後、一周線はなくなった。

 (1) 線路の移設や延伸
 開閉する橋で有名だった「勝どき橋」上の都電路線が開通したのが昭和22年12月でした。新宿では、新宿駅東口の新宿通りから出ていた線路が、靖国通りに移されたのが昭和23年12月でした。
 都電と同じゲージの京王線の電車が、新宿追分(現在 新宿3丁目付近)を起点としていたが、昭和20年7月に新宿駅西口のほぼ現在地点(地上)に移転している。(京王50年史)。他の鉄道会社でも、かつては東京市電との直通運転を目指して、市電と同じゲージの電車もあったが順次ゲージが変えられた
 (2)新宿車庫と大久保車庫
 『11』、『12』、『13』系統の受持。大正15年新宿車庫の分庫として開設され、昭和14年11月営業所となった。戦後は戦災で焼失した新宿車庫が大久保車庫に同居していたが昭和38年12月統合されている。昭和43年2月11系統が廃止された後、昭和45年3月27日12・13系統の廃止とともに閉鎖され、現在敷地跡は都営アパートと新宿区文化センターになっている。
 かつての13系統、抜弁天方向から専用軌道跡の道を下ってくると大久保車庫の跡へ出るが、近代的な建物に変わった車庫跡は往時の面影は無くなっていた。