2系統 (三田―曙町)









総距離 9.376km

三田-芝園橋-芝公園-御成門-田村町4丁目-田村町1丁目-内幸町-日比谷公園
-馬場先門-和田倉門-大手町-神田橋-錦町河岸-一ツ橋-神保町-三崎町-水道橋
-後楽園-春日町-初音町-小石川柳町-八千代町-指ヶ谷-白山上-曙町(東洋大学前)

開通 M43. 4

廃止 S42.12

二つ並んだ旧女学校

 都電三田車庫から真北に行く道は、芝園橋から日比谷を経て神田橋に通ずる。明治の頃には東京市街鉄道線が走ったコースである。三田車庫を出ると間もなく右に赤煉瓦が見える。江戸時代ここに薩摩藩の蔵があり、その反対側、現在の日本電気のところに薩摩邸があった。慶応4年3月13日、14日、勝海舟、山岡鉄舟が西郷隆盛に会見して、江戸を戦火から救うことに成功したところである。
 右側の明治調の煉瓦造りは、明治22年5月、千葉県出身の池貝庄太郎が創立した池貝鉄工の三田工場である。その、お隣りが東京女子学院、その北隣りの三角屋根の建物が戸板学園である。いずれも明治時代に創立された旧女学校である。
 手前の東京女子学院は、戦前は、東京女学校と呼んだ。」「東京」と自ら名乗れる程その創立も古く、明治36年、棚橋絢子の夫君は文学士棚橋一郎で、文京区の郁文館学園とは関連校である。棚橋絢子女史は昭和14年秋に101歳の高齢で大往生された。定命50といわれた時代の101歳である。今日なら130歳くらいに相当するのだろう。当時大変に話題となったので、私の記憶の中にある。ところで、この東京女学校の服装上の一特色はスカートの裾には白線が一本入っていることだ。地方の学校にはその例が多いが、都内ではここと、品川区立の東海中学校のスカートの白線と、たった2校のみである。
 また、戸板学園は、明治35年に戸板関子女史が和裁の学校として創立したもので、今は短大まである。演劇評論家戸板康二先生は、創立者戸板関子女史の従兄弟にあたる。
 『37』番の電車は、三田から北に千駄木2丁目まで通っている。沿線に話題となる建物が三つも並んでいて、嬉しいやら、説明に苦労するやらで、贅沢な悲鳴ではある。
 鉄道馬車の後を受けて明治36年8月22日に、品川八ッ山〜新橋間に開通した時に、東海道沿いの電車が通った。これはその後、品川駅〜上野浅草廻りとして走った。一方、この写真のように南北には明治37年6月21日に、東京市街鉄道線の三田〜日比谷間が開通した。

 三田から、日比谷、神田橋、神保町を経て、白山上の東洋大学前で折り返していた『2』番は、途中、『37』番や『35』番などと共通路線を持つ系統と競合していたから、シングルナンバーの『2』番の荷は重過ぎた感があり、利用客も少なく、廃止前には、朝2台、夕方2台だけの配車となっていた。
 一ツ橋の如水会館前で90度カーブを切る『2』番の姿は、沿線中の一名所で、大正8年に建てられた瀟洒な建物と、綺麗に敷き詰められた石畳と電車が、言うに言われぬ調和を見せていた。背景には共立講堂と、小学館、救世軍本部が続いている。

芝公園の雪灯かり 

 昭和42年2月11日が「建国記念日」と制定され、この年は土、日と連休になった。しかもこの連休には珍しくも大雪が降り続いた。人々が足を踏み入れることも少なく、都心の行にしては12日の夕方まで綺麗に残ってくれたのは嬉しい。昨夜にに引き続いて、12日も早朝から雪の撮影に出かけた。皇居周辺、日本橋、鍛冶橋、日比谷を経て芝増上寺にさしかかった時には、もう夕方であった。
 増上寺わきから北の御成門にかけて、電車道の「誰哉行灯」に灯りが点った。一定間隔で建てられた「誰哉行灯」が、消え残った白雪に映えて、とうに暮れてしまった。「たそやあんどん」とは日本的ないい呼び方である。「たれか、かれか、その人を識別する行灯」ということで、よく温泉町とか三業地に立っているが、門前町にもよく似合う灯明だ。今まで何度もここを通ったが、こんなに建っていたのを気付かなかった。今、『37』晩の電車が三田から千駄木2丁目に赴く所であるこの都電にとって恐らく最後の雪となると思うと、とても無理かも知れないがシャッターを切って見た。コニカVAは素晴らしい。フォーカル・プレーンではなくレンズシャッターなので、1/8秒でもぶれない。絞りを開けて撮っても、このヘキサノン・レンズはなかなかシャープなのが気に入っている。
 右側の常盤木の公園に建っている洋風の建物は、戦前は芝区役所として使われたもので、今は、港区役所となっている。この区役所前の通りを南に戻ると、赤煉瓦調のレストラン、クレッセントがある。クレッセントは三日月の意味、美術商を営んでいた石黒さんのお店である。港区の芝というところは、明治初年から外国使節の領事館などがあって、日本的なところに、西洋的な雰囲気もあって洒落た所だ。
 東京市街鉄道線が、明治37年6月21日、日比谷〜三田間に電車を通す。その後、神田橋行、本郷上野行、本郷本所行の方向板の、緑色の車体の電車を走らせる。
 大正3年には、『6』番、三田〜本郷巣鴨行となる。昭和初期の5年までは、『3』番、三田〜吾妻橋西詰、『7』番、目黒駅〜東京駅が通るが、翌6年に『3』番が『2』番に、『7』番が『5』番に番号のみ変更された。
 戦後は、『2』番、三田〜白山曙町(東洋大学前)、『37』番、三田〜千駄木2丁目、『5』番目黒駅〜永代橋の3系統がここを通る。『2』番、『5』番、『37』番のいずれも昭和42年12月10日から廃止された。

最古参建築の愛宕署

 戦前の東京デ目立つ洋風建築は、郵便局、警察署、学校や銀行など、ごく狭い範囲に限られていた。二等郵便局や警察署などは2〜3階建のなかなか個性のある建て方になっていた。戦後20数年も経てみると、それらの建物が一つ一つ消えて行って、近代的な四角っぽいビルに姿を変えてしまった。気がついた時には、指折り数えるほどになっている。警察署では、四谷、深川、南千住、万世橋の各署と愛宕警察署くらいなものだった。愛宕署は以前は芝警察署といっていた。写真の電車は、浜松町1丁目(旧宇田川町)で折返して、これから四谷3丁目に帰る『33』番である。右に玄関の見えるのが愛宕署で、その隣りが芝消防署である。愛宕署は大正15年に建てられたから、半世紀近い風雪に耐えてきたグレーの建物である。
 想い出しても、小平事件、バー・メッカ殺人、連続射殺魔事件などの、犯罪史の残る大事件を扱ってきた。ところが、同署の留置場は僅かに五房だけという、佳き時代の建築では、現在のマンモス東京のど真ん中の犯罪には追いつけないのは当然で、4階建の別館を背後に増築した。壁のねずみ色がなかなか凝っていた愛宕署ではあったが、昭和56年11月に取り壊された。今は、昭和59年の新庁舎完成まで、増上寺境内の仮庁舎に引っ越している。
 この『33』番には、天現寺の広尾車庫所属の8000形が多い。8000形は鉄鋼製の細長い電車で、スピードは出るが、車体が軽いため車輪の響きがもろに室内に伝わり、窓ガラスがガタガタ揺れるので、運転手さんの間でも不評であった。この愛宕署のように、警察署と消防署とが隣り同志に並んでいる所は、本郷の本富士署と、上野署、深川署などがある。
 東京市街鉄道線が、明治37年6月21日、三田〜日比谷間に電車を通した時に始まる。一方、御成門〜麻布台町は明治44年8月1日に開通し、御成門〜宇田川町(浜松町1丁目)間は大正4年5月25日に開通して、御成門は完全な交差点となる。

西新橋1丁目

この交差点の名前は2度変わった。戦前は桜田本郷町と言われ、「わが町に福豊館のある誇り」と、うたわれた映画館の第2福豊館があった。
 その後、忠臣蔵で有名な赤穂藩主、浅野内匠頭長矩が切腹した一ノ関藩主田村右京太夫の屋敷があったのに因んで「田村町1丁目」と呼ばれていたが、あの悪評高い新住居表示で「西新橋1丁目」となった。
 左側に日石本社、三井物産、NHKと続き、右側にはロジャース貿易商、飛行館、興国人絹パルプ、川島胃腸病院と続いていた。
 今や『35』番に変わって都営三田線が地下を走り、この辺り、高層ビルが林立して、すっかり様変わりしてしまった。

山下門外の変わりよう

 東海道本線の線路は、旧外濠に沿っていた。外濠は、一石橋から日本橋川と分かれて、呉服橋、八重洲橋、鍛冶橋、有楽橋、数寄屋橋と流れてきて、次ぎが山下橋だった。
 今はガードが上に蓋をしたように被さって薄暗いが、そこから日比谷方面にかけては、広重も「江戸名所百景」に描いている。戦前からすでに様変わりが激しい所だった。
 旧山下橋から日比谷公園への通りは、左側に、ライト設計の帝国ホテル旧舘がある。ホテルの正面には、東洋的な池に水蓮などを植えて、スクラッチタイルも明るい茶色に感じたが、北側面は、割合と重々しい。昭和9年に建った東京宝塚劇場は昔からお馴染みだ。宝塚の東京公演のほか、東宝系の芝居を演じてきた。
 東宝娯楽街の左右の建物の主は変わっていないが時代の波に乗ってどんどん高層化されている。路上駐車違反放置も年々多く、いつまで経っても駐車場不足が続いている。
  
お濠端の帝国劇場

 皇居の濠を挟んで帝劇を撮る。濠にはブラックスワンが泳いでいる。モノクロ写真では見難いが、水かきの波紋によってその位置はほぼ。わかる帝国劇場は、わが国にも欧米に比べて恥ずかしくない純洋風劇場を作りたいということで、渋沢栄一を創立委員長とし、明治14年3月に開場した。東京商工会議所の赤レンガと異なって白夜の殿堂として華々しくデビューした。また、帝劇では専属の女優養成所を経営し、卒業生による演技を見せたことは、かってない試みであった。
 その養成所は芝の桜田本郷町に帝国劇場附属技芸学校として開校された。今の西新橋1丁目の旧NHKの近所である。
 第1回の卒業生には、森律子、村田嘉久子、初瀬浪子、河村菊江、藤間房子、鈴木徳子という錚々たるメンバーがいた。
 戦後の我々に忘れないのは、昭和30年1月上映された「これがシネラマだ」である。それまでの映画の常識を越えた大型画面に、すっかり魅了されてしまったものだ。「これがシネラマだ」のうたい文句も有名になり、他の商品にまで「これが・・・だ」などと便乗されるほどであった。
 明治の創立の時には、三越の日比翁助も発起人の中に名を連ねていたこともあってか、三越の濱田取締役の発案になる「今日は帝劇 明日は三越」のキャッチフレーズでよく親しまれた。
 シネラマも、オリンピックの年の昭和39年1月に幕を閉じ、地上9階、地下6階の現在の帝劇が昭和41年1月に完成した。今は東宝系の劇場として幅広い演芸活動の場となっている。
 右の建物は、第1相互ビルで、終戦後は、アメリカ軍のGHQがあった。縦に通った大きな四角い柱がこの建物の特色で、どっしりした重量感が米軍にも好まれたのであろう。この濠端には柳が植えてあって、陽春の風になびいた柳の枝がなかなかいい。
 東京市街鉄道線が明治36年11月1日、日比谷〜半蔵門、翌7年6月21日、同じ街鉄の日比谷〜見た間が開通した。一方、外濠線の東京電気鉄道の虎ノ門〜土橋間が通じて、内幸町あたりで交差する。
 日比谷公園の交差点は、公園の東北と東南との2つがあった。外濠線は東南で交差し、街鉄の渋谷と新宿から来たものは東北で交差していた。
 大正3年には東西の方向に渋谷から2番が、新宿からは3番が築地、両国と築地、浅草に、札の辻から8番が築地に、そして南北の方向には、巣鴨の6番が薩摩原(三田)に通じていた。
 昭和6年には2番三田〜浅草駅、7番青山6丁目〜永代橋、18番下板橋〜日比谷、29番錦糸堀〜日比谷が11番の新宿駅〜築地と交差する。
 戦後は南北の方向には2番三田〜東洋大学前、5番目黒駅〜永代橋、25番日比谷〜西荒川、35番巣鴨〜西新橋1丁目、37番千駄木2丁目〜三田の6系統、東西の方向に、8番中目黒〜築地、9番渋谷駅〜浜町中の橋、11番新宿駅〜月島の3系統が交差していた。2番、5番、8番、37番、は昭和42年12月10日、11番、35番は43年2月25日、9番は43年9月29日から廃止された。25番は昭和43年3月31日に須田町まで短縮され、同年9月29日に廃止された。

お濠に沿うビジネスビル群

 神田橋を南に渡る電車は、大手町、和田倉門を過ぎると、右側に皇居の汐見橋や、三層の富士見櫓を、美しい濠や石垣越しに眺めながら、馬場先門、日比谷へと進んで行く。
 松の緑と石垣のグレイ、それに城の白壁とが日本的な美しい階調を保って、もう三世紀以上もそのままであり、昔の日本人の美的感覚と築城技術の非凡さを物語ってくれている。この光景に接する時、外国人ならず、我々日本人でさえも、一種の不思議な感じに打たれることがある。
 左側に目を転じると、一つ一つ個性的な味わいを持った重厚な石造りビルが続いて、首都のキ大路にふさわしい光景を呈してくれる。しかも皇居前の広場からは、これらのビル群を、まるで舞台の書割のようにパノラマ風に一望できるのも、他所にはない得がたい眺めである。
 左から右に、東京海上ビル、郵船ビル、岸本ビル、千代だビル、明治生命館がある。馬場先門の道を挟んで、更に右に東京商工会議所、東京会館、帝国劇場、第一相互ビル、丸の内警察署、そして日比谷公園交差点の日活国際会館と三信ビル等々、いずれも大正末期から昭和初期にかけての名建築が建ち並んでいる。建築科の学生ならずとも、西洋建築の生きた教材を見る思いがするではないか。
戦時中まで、ここを電車が通ると、車掌が「ただいま宮城前を御通過です」といい、誰からとも無く乗客は帽子を取って、宮城の方に遥拝したものだった。宮城前を通過するのは自分たちなのに、車掌はなぜか「御通過です」と「御」の字をくっつけた。
 欧州では、都市の真中に川が流れていて、川に沿ってこうした美しいビル群が立ち並び、その前の川沿いの道に市電が走っているところが多い。
 対岸から見ると、皇居前から眺めるのと同様に、パノラマ式に風景が展開されていて、思わずフィルムが無くなってしまうのである。
 明治36年9月15日、東京市街鉄道会社線が、数寄屋橋〜神田橋間に線路を開通したときに始まる。当初、日比谷公園〜神田橋間が走る。
 その後大正3年には6番三田〜神田〜本郷〜巣鴨間がここを通る。一方、大正9年7月11日に、鍛冶橋〜馬場先門間が開通して、8番永代橋〜青山6丁目間と11番永代橋〜天現寺橋間が通る。

城の玄関大手門

 何処の城でも、大手門からの眺めが最高だといわれる。大手門はその城にとっての表門であり、玄関口である。築城の際には、まず天守台から決めてかかり、その位置が定まれば、角櫓、渡廊、濠と門などの配置や規模が、それぞれの縄張り設計によって位置付けられる。 江戸城の天守台は、大手門から見てやや右上、つまり西北の丘の上にあって、そこに五層の天守閣が聳(そび)えていたことが、近年発見された「江戸図屏風」によてわかる。
 明暦の大火で、惜しくも天守閣は炎上し、再建の途上再び落雷で焼失した。以後、ついに再建されることがなかった。南の方に三層の富士見櫓が残っており、二重橋の上の多門橋櫓と共に、かっての巨城の面影が偲ばれる。
 大手門は、慶長年間に、城作りの名人藤堂高虎が縄張りをして、元和年間、伊達政宗が工事一切を受け持ったというより受け持たされたといった方が適当である。豊島豊彰氏によれば、「大手門工事に要した人員は延べ420,3000余人、黄金2,676枚といわれる」というほどの大きい工事である。当時、家康と勢力相拮抗していた仙台侯も、これでは財力を大分削減された結果となった。この大手門は、もちろん右折型の桝型御門である。
 この写真を撮影した時には、門も工事中だし、大手町も千代田線の地下鉄の工事中で、信号塔が取り除かれ、右側の日本鋼管ビルの前にあるように、仮設の信号塔の上で、ポイントマンがレールを操作していた。
 江戸の道路計画は、日本橋を中心として全国に放射状に街道が散っていたと考えるべきであるが、直接日本橋から出ていたのは南北の道でむしろ各方面へは、江戸城の周囲の各御門からの道が四方に放射されていた。
 半蔵門の甲州口、桜田門の芝口、常盤橋門の朝草口などである。この大手門は、昔は門の大橋があったことから大橋口といわれ、じょうかの商業センターに通ずる口であった。全国各地の大手門とか大手という町名の所は、大抵そうである。
  
和田倉門

 昭和20年5月25日夜半、丸の内一帯に焼夷弾の雨が降った。この時、東京駅は半焼し、南北にあった2つの丸いドームも焼け落ちてしまった。以後東京には、大きな空襲はない。
 内田百閧ヘ「東京焼尽」の中で「東京駅の野天となりたる歩廊にて電車を待つ間、骸骨の目のような赤煉瓦の窓の穴から、金色帯びた落日が、向うの大内山の森に沈むのを見た」と記している。
 22年3月に、東京駅は修復されたけれど、3階建は2階建てとなり、丸いドームは8角形に変わった。航空写真は、東京駅修復後のものであるが、八重洲橋のあった外濠が埋められ、27年に完成した新丸ビルの地は、まだ水溜りになっているのも目を引く。
 都電全盛時代には、皇居のお濠に沿って、堂々と都電が走っていた。和田倉門附近の停留場の皇居よりが、パレスホテル、東京駅側に見えるのが、大正10年に建った東京海上火災本社ビルも、現在では25階建の高層ビルとなり、その先のとんがり屋根の東京銀行会館が、小さくなってしまった。
 5月の陽光に照り映える濠端の柳が、春風になびくさまこそ、首都の大路の趣がある。この和田倉門の濠のラインは、かっての太田道灌の江戸湾の海岸線で、その後、川筋を人工的に変えたり、埋め立てをしたりして、外濠を残しつつ町を拡大していった。その各濠のラインが、当時の海岸線を画していた名残であると「江戸の川・東京の川」の著者鈴木理生さんを始めとする郷土史家は述べている。
 しかし、和田倉門から、馬場先門にかけての濠といい、石垣といい、有に350年を経ても、びくともしない事は、驚異的な事である。フランス人のノエル・ヌエットは、皇居周辺の濠と石垣の風景をこよなく愛し、世界の中でも最高の風景と絶賛し、版画に残している。
 ここは、西側が皇居一帯であるから、東側がいわば片町としての存在となっている。とんがり屋根の東京銀行会館を別として、他は全て三菱村で、ビルの前身は大正12年の関東大震災以前から既に建っている。丸ビルも震災の年の2月に完成した。鉄筋のアメリカ式の貸事務所で、馬場先門の赤レンガの建築群とは異なった年代と様式になっている。
 先年、戦前の日本の高校や大学で勉学をした、中国人達を連れて、東京を案内した時のこと、「この和田倉門辺りに来ると、一同がにわかに活気付いて「あれは東京海上でしょ・・・・・・・・?」「あっ、郵船ビルがある」と、戦前の記憶を60年ぶりに蘇らせていた。その一つが正確で、現在と持ち主が変わっていないことに一驚したことがあった。ここに建ち並ぶビル群を、内濠の向から眺めると、まるで、パノラマの如く、ワイドに見えてなかなか印象深いものである。
 この空間というものは、都心にありながら得がたいスペースで、やはり片側に、広々とした水面積を持っているからなのだろうが路面電車が走っていた頃は首都のキ大路という感じであった。
 和田倉門の四辻を東に曲がれば、正面は東京駅中央口、幅広い道路の地下は、丸の内地下駐車場になっている。実はこの駐車場は戦前からあるので先見の明があったというべきだろう。
 余談だが、濠や川や海の波を江戸時代の大絵図でみると、この私の波の描き方は、延宝期頃の古い描き方で、享保から明和にかけては、片男波といって、波が山形に高くなる傾向にあり、幕末にはもう少し曲線が長く流れているが如く描かれている。でも、この濠に噴水を設けたりしないことは幸である。昨今の公園や緑地の作り方には、一つの哲学がないような気がする。土の部分を敷石でふたをし、池には噴水、空き地にはブランコ、ベンチ、滑り台などを設けて、子供達は自由に遊べない風にしか出来てこないのはおかしい。
      
神田橋

 神田橋に電車が通ったのは早く、明治36年9月15日には、すでに街鉄線の緑色の電車が、三田の方から神田橋まで開通した。
 『東京地理教育 電車唱歌』明治38年刊
1・玉の宮居は丸の内     2・左に宮城おがみつつ    3・渡るも早し神田橋
  近き日比谷に集まれる     東京府庁を右に見て      錦町より小川町
  電車の道は十文字       馬場先門や和田倉門      乗換えしげき須田町や
  まず上野へと遊ばんか     大手町には内務省       昌平橋をわたりゆく
と歌われている。
 神田橋には以前、神田橋御門があった。ここを流れる川は、飯田橋から俎板(まないた)橋、一ツ橋、錦橋などの下を流れ、やがて一石橋からは日本橋川となって隅田川に注いだ。古くは平川といい、徳川氏入府前からの重要な地点であった。この川の上と下に錦町河岸、鎌倉河岸という河岸の名がついていることからも解かるように、昔から諸国の荷を、この平川を利用して陸揚げしていた。
 今でも材木屋、砂利屋、タイル屋などが、この流域に多い。また、現在は台東区元浅草1丁目(浅草七軒町)にある白鴎高校(府立第1高女)が、神田橋の西にあった。
 朝夕各2台ずつの数少ない2番三田〜東洋大学前。朝の神田橋の交差点で神田警察の交通巡査が、手信号の訓練をしていた。若い巡査のそばにベテランの巡査が立って、交通整理の要領を特訓中です。35、6年前には、こんな風景も見られたのですね。
 この神田橋の交差点は、南北の15番、25番、37番に東西の17番が交差していたほかに、2番と35番が曲がっていた。なかなか複雑な交差点で、最後まで信号塔に転轍(てんてつ)手が乗っていた。自動式ではさばき切れるものではなかった。
 緑の電車の東京市街鉄道会社線が、明治36年9月15日に数寄屋橋外から神田橋まで開通し、同年12月29日には神田橋から両国まで延長された。一方、外濠線の東京電気鉄道会社線の土橋〜御茶ノ水間が、明治37年12月8日に開通した。神田橋は街鉄と外濠線は赤坂見附を起点に外濠にそって一周した。
 大正3年には、6番巣鴨〜薩摩原(三田)、9番の外濠線が交差する。
 昭和初期5年までは、3番三田〜吾妻橋西詰、19番早稲田〜洲崎、21番大塚〜新橋、22番若松町〜新橋、24番下板橋〜日比谷、33番浅草駅〜日比谷、37番錦糸掘〜日比谷の7系統が神田橋に集まっていた。翌6年には2番三田〜浅草駅、14番早稲田〜洲崎、18番下板橋〜日比谷、29糸掘〜日比谷の4系統に整理された。
 戦後は、2番三田〜東洋大学前、18番志村坂上〜神田橋、35番巣鴨〜西新橋1丁目、37番三田〜千駄木2丁目、15番高田馬場駅〜茅場町、25番西荒川〜日比谷、17番池袋駅〜数寄屋橋の7系統がここに集中していた。昭和42年9月1日から18番、2番、37番は昭和42年12月10から、35番は43年2月25日から廃止となった。引き続いて同年3月31日に17番、25番は短縮となり、ここからの都電は消えた。

一ツ橋の共立講堂

 東京は人口一千万人を越すマンモス都市であるが、大勢の人々が一堂に会せる大講堂となると意外に少ない。安田講堂、大隈講堂、久保講堂、朝日講堂、読売講堂のほかに、この一ツ橋にある一橋講堂と共立講堂がある。
 神田錦町から一ツ橋にかけては、明治維新後、文部省の土地になった所が多いが、そのほかにもここを基盤として発足した学校も多い。東大、学習院、一ツ橋大、東京外語大、中央大、共立女子大などである。
 共立女子大は、明治27年、共立女子職業学校として創立され、殊にお裁縫の教育では全国に子弟が多い。共立講堂は、本来、共立学園の講堂であるが、戦前から外部に貸していたので、小学校や中学校の同窓会をここでやったことがある。京華中学の同窓会では、市川猿翁、市川中車、岩井半四郎のほかに、黒沢明、十朱久雄、斉藤達夫、金子信雄、山下敬二郎などの映画陣、そして小松耕輔、井口基成、武光徹と多士済々、自前で舞台が、何でも出きるという豪華版であった。
 神田で出ている雑誌「神田ッ子」11月号に、舞台美術家孫福剛久さんは「神田ぶらり散歩」でこう書いている。
「私の神田には市電(都電)のイメージが強いのです。神田が市電の街に思えるのは私だけでしょうか、バスや地下鉄での神田は、どうも私だけの神田ではないようです。
 <中略>さて、私がこつこつと芝居をやって来た歴史の中で、関係したことのある劇場,一ツ橋講堂と千代田公会堂、共立講堂と九段会館、特に一ツ橋講堂は新劇のメッカであり、数多く観劇し、私も幾つかの舞台を創りました。
 一ツ橋の停留場で、水道橋へ向う都電が錦町河岸から曲がってくるのを、暖かそうな学士会館の灯を見ながら待った事を今でも身体が覚えています。何故か寒い停留場が印象に深い。
 大正9年5月29日、神保町〜錦町河岸間が開通して、大塚車庫のナンバー『5』番、大塚駅〜土橋間の電車が通る。
 昭和に入って5年までは、『21』番、大塚駅〜新橋、『24』番、下板橋〜日比谷間となる翌6年の改正で『21』番は『16』番に、『24』番は『18』番に番号が変更される。
 昭和19年には、『16』番、大塚駅〜日比谷、『18』番、下板橋〜神田橋、『19』番、巣鴨車庫前〜西銀座が一ツ橋を通る。

水道橋の(東京歯科大学)

 この眺めは、戦前から半世紀も変わらない水道橋の交差点である。右に国電の水道橋駅、突き当たりの茶褐色の建物は「東歯」といわれる東京歯科大学で、昭和5年からここに建っている。日本橋蠣殻町で開業されている小川洋先生は、新築まもなくい校舎に通学された小川洋先生に「東歯」の小史を、お伺いした。
 そもそも東京歯科大学は、明治23年、高山紀斎が芝の伊皿子に開いた高山歯科学院にその端を発する。その後、明治35年に後継者の千葉県出身の血脇守之助が、学校を神田小川町に移し、東京歯学院と改称した。その翌年、さらに校舎を水道橋の現在地に移した。近代歯学の学校として「東歯」の名は、戦前から全国に聞え、幾多の歯科医を世に送り、その数は最多である。水道橋校舎が半世紀を越した昭和56年9月に、キャンパスを千葉県稲毛に移転してからは、この建物は大学本部と附属病院として活用されている。戦前から、お茶の水駅のそばの官立東京歯学専門学校や日本大学の歯学部、そして飯田橋駅のそばの日本歯科医専と、歯医者の学校が殆ど中央線の沿線にあることは興味深い。
 今、目の前を横切ろうとしている電車は、新宿から来た『13』番の水天宮行きで、これと交わる南北の電車は『17』番の数寄屋橋〜池袋駅間である。道路上の石畳がいかにも美しいハーモニーを保っている。
 ちょっと余談だが、水道橋駅は娯楽の殿堂「後楽園」を控え、野球、ボクシング、場外馬券売場や昭和48年4月までは競輪場があって、競技が終了すると人また人の大波に襲われる。競輪が盛んだった頃、一度に大勢の乗客が押し寄せるのは最終でレースで大穴が出た時、なかなか来ない時は銀行レース、中ぐらいのこみかたはの場合は、やはり配当も中ぐらいだと、ベテラン駅員は長年の経験で解かるという。
 水道橋駅は、関東大震災までは現在と逆にお茶の水よりにあり、お茶の水駅は逆に水道橋寄りにあった。

娯楽のセンター後楽園

 全国に有名な後楽園は、野球場、遊園地としての後楽園かも知れないが、本来の後楽園は、その背後にある水戸家上屋敷の庭園の名前である。
 寛永6年(1629年)に徳川頼房が起工した回遊式庭園で、明暦の大火で全焼したが、その後、光圀公が明朝の臣、朱舜水(しゅしゅんすい)の意見を取り入れて寛文9年(1669年)ごろに完成させた。殊に全国から採り集めた敷石が見事で、春に秋に訪れる者を幽邊の境に導く。
 「後楽」とは、茫仲淹の『岳陽楼記』の中の、「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から来ている。為政者たる者斯くあるべきで、今日の為政者には耳のいたい言葉であろう。
 現在遊園地になっているところは、明治4年6月にできた砲兵工廠の跡で、この辺りの工事の時には、掘っても掘っても美しい赤煉瓦が出てきて、その広大な規模を忍ぶことができた。明治の頃、開成から陸軍工科学校を出て、砲兵工廠で機関銃の技術者として働いていた。これが昭和になって、板橋の造兵廠に移転して、昭和12年9月に野球場が完成した。当時、中国と戦争中の平日に、職業野球を見ようなんていう人は余りいなかった。小学生だった私(ゆきのわかんじん)は、学校の帰りに「ただ」で入れても貰って、ランドセルを枕に寝転がって観戦した。その中には沢村投手、三原内野手、白木投手、杉浦内野手、苅田内野手など錚々たるメンバーがいたものだ。
 それが、次第に兵隊に取られる選手も出て、服装も戦闘帽になってしまった。新宿から水天宮まで通っていた『13』番の電車は、土日には場外馬券売場へ来る人々でゴッタ返した。
 昭和48年4月にオープンした黄色いビルには、ボーリング場、スケート場と現在の場外馬券売場がある。この特別な黄色は、当時の後楽園のプロジェクト・リーダーの田辺英蔵さんが、彩色に悩んでいた時に、乗ったパンナムの機内で出たコーヒー・シュガーの色が、ちょうどあの黄色だったという。隠れた話がある。
 外濠線の東京電気鉄道会社が、明治38年5月12日に、本郷の元町から神楽坂まで通させた。外濠線は赤坂見附を起点として、循環式に外濠に沿って一周していた。飯田橋から諏訪町、小石川橋、水道橋、本郷元町、湯島5丁目、師範学校前、神田松住町と停留場が並んでいた。
 大正3年には、『9』番の電車が外濠線を走った。昭和5年までは、『18』番、角筈〜飯田橋〜万世橋と、『22』番、若松町〜お茶の水〜神田橋〜新橋間となった。翌6年には、『13』番、角筈〜飯田橋〜万世橋と改正された。
 戦後は、万世橋〜秋葉原東口間が、昭和33年4月25日に延長されて、『13』番、新宿駅〜水天宮間となった。昭和43年3月31日から岩本町までに短縮、昭和43年、昭和45年3月27日から廃止された。

都電のメッカ春日町

 ペルリが来訪した寛永6年の「江戸切絵図」を見ると、水戸家の上屋敷は、とてつもなく広くて、現在の後楽園すべてと、講道館、文京区役所、礫川公園、戦没者霊苑の丘を含めた範囲である。後楽園球場の西には、昭和25年から発足した競輪場はまだかけらもないことが空からの写真で解る。
 春日町交差点は、三角地帯の真ん中に信号塔が建ち、南方から来る『2』番、『18』番、『35』番と『17』番と分かち、西方からの『16』番、『39』番と『17』番とを分かつのせ、結構忙しいポイントマンだった。背後の古ビルは東京都の変電所で、電車を動かす電流を管理していた所である。交差点内のスペースというのは結構広くて、歩行者天国にでもなれば、ちょっとした球戯なら出来そうだ。
 激変した街の中を『17』番の、代替バス池「67」系統・『18』番が、水「57」系統に、『39』番が、上「69」系統に、そして『16』番の代わりには、デラックス路線バスのグリーンシャトル都「02」系統が走り抜ける。背後の変電所変じて都営住宅となる。今はここを文京区役所前という。下を走る都営地下鉄三田線の駅名は春日である。春日通りと白山通りの交差点。春日町は変形交差点で、三角形に線路が交差している。

拡幅の波、春日通り(昔、小石川同心町)

 春日通りを北へ行く道を、江戸中期の「江戸大絵図」では、川越道と記されているものもある。小日向・小石川台地の尾根に通じた道で、台地上の平らな部分は50メートルに満たない場所もあリ、歩いていると馬の背を行く感じになる。大空襲で辺りが焼け野原となると、土地というものは今まで気がつかなかったが、起伏のある事が目で確認できて、今更ながら驚いたものである。
 煉瓦造りの建物は、2等郵便局(集配局)の小石川郵便局である。日本橋局、京橋局、下谷局などと並んで、戦前の逓信省時代の所産で、屋根の低かった街の中で大いに目立った存在だった。駅舎にしても郵便局にしても、戦前の建物の方が重厚で、人々からも親しまれてきた。お金をかけてまで新しい建物にして、果たして使いやすくなったり、街の風物詩として、我々が誇りにする事が出来るだろうか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
 春日通りは、現在、本郷3丁目から西へ拡幅が進行中で、取分け、伝通院附近はマンションラッシュで、平均階数8〜9階になっている。小石川郵便局も、来るべき拡幅を予定して、左手奥に引っ込んで建てられている。


一葉ゆかりの町を行く

 春日町の交差点を一路北に進む道は、戦前の停留所名でいえば、柳町、掃除町、指ヶ谷町を経て小石川の谷を縫い、やがて白山下へ出る。関東大震災にも今次の戦災にも無疵だった屋根瓦の軒の低い街並みが、戦前の面影を伝えてくれる。そんなつつましい町並みは珍しい、白煉瓦の明治建築が人目を惹く。
 この建物は、近頃では焼肉屋の新香園となっていたが、そもそもは本郷貯蓄銀行の小石川支店で、明治36年6月に創建されたから約100年の昔に垂んとする。当時のお金で、創立資金五万円、頭取は田島吉兵衛で、支配人は田島信次郎あったが、後に、質屋の金原虎作が頭取となった。金原は大正時代から金原出版を興し、現在では南江堂、医学書院と共に、医学書の大手出版社である。昔から「本郷の三原(さんぱら)」というのがあった、金原、いわしや医療器の漆原、和菓子の三原(一説には油の萩原)の三つをいう。
 この建物のたもとには、樋口一葉文学碑の標示板が立っている。その右側の方は、一葉の住んだ明治20年代に、水田から新たに開けて「新開」といった。いかがわしい飲み屋が増えるのを嘆いた「にごりえ」に影響を与えた所であり、世間から惜しまれながら明治29ねん11月23日(24歳)という、はかない命を閉じた一葉終焉の土地である。
 反対側の左裏辺りに、跡見花蹊女史が建てた跡見女学校が神田猿楽町から、明治20年に移って来た。げんざいはの跡見は大塚窪町に移転し、その跡には柳町小学校がある。
 写真の通りは暫く北に歩くと、右側に気楽館という2番館か三番館の映画館があり私は小学4年生の昭和12年頃、学校の帰りに菊坂の伯母のところにランドセルを投げ込んで、長塚節の「土」を見た。小杉勇、風見章子が主演した映画で、日照と闘う茨城県水海道辺りの農家の苦労が画面に烈々と伝えられ、東京ッ子の私は深い感銘を受けたのを想い出す。

小石川の三河屋

 昔ながらの瓦葺の商家の存在を気にし出してから、もう20年は経つ。これは絵になるという商家は、どういうわけか酒屋とか米屋とか質屋に多い。酒だとか塩を扱う店や煙草や切手を扱う店は、その土地の主みたいな古くからの家が殆どで、家の造りも古いし大きいということがいえる。
 私は決まって煙草屋さんかお酒屋さんに聞くことにしているが、他所で聞き始めても、結局は煙草屋さんか酒屋さんに行くことに落ち着くようだ。
 春日町から北に電車道を進むと、初音町、柳町を過ぎ、八千代町の消防署にさしかかるあたりに、ひときわ目立つ瓦葺の酒屋三河屋がある。見たところは、だいぶふるいく見えたが、昭和5年に新築した出桁造りの商家である。こんなところに大きな酒屋がと思うかも知れないが、この小石川の谷の東上は学者町として知られた本郷西片町、左上の方は小石川戸崎町の台地で、両台地に控える消費者が、夕方ともなると商店街に下りて買物をするのである。
 いわば、山の手と下町という、需要と供給の中に栄えたお店である。また、八千代町から指ヶ谷町にかけての右側一帯には、明治末期にできた白山三業地のあるところだ。現代のように、バーやスナックなどで飲んだり、うさを晴らす時代と異なって、戦前は、都内各地の三業地は結構賑わったし、何十軒となくある待合や料理屋ではお酒は付きもの、自然と需要が大きかった。だが、この三河屋の店舗も、写真で見るように、道路拡張に伴って、背後に建設中の近代ビルに変わってしまう。
 近くに、樋口一葉終焉の碑や、左上の丘には姉崎潮風の旧居があった白山通りも、せっかく震災と戦災を免れたのに道路が大幅に拡張された。気を止めて眺めていた私も、現在そこに立つと、昔の街並みが、まるっきし想い出せないで、やたら無常観におそわれる。
 ここはもと八千代町と呼んだ。明治42年1月20日、神保町から春日町まで来ていた電車が、指ヶ谷町まで延長された時に始まる。
 大正3年には、巣鴨車庫のナンバー『6』番を菱形の板に書き、電車の横窓に付けて巣鴨車庫前から薩摩原(三田)間を運転。

上下で道を集める
薬師坂

 春日町の方から北に進んで指ヶ谷町から白山上に登る坂は、こうして遠くから見ると大した坂ではないように見えるが、実際に歩くと意外にきつい勾配である。ここを上がっていた電車は、坂上に信号があるので、坂の途中で停止することが多く、運転には神経を使った。坂の途中左側に薬師堂があることから薬師坂という。坂上の白山上は、5叉路になっていて、この薬師坂と行き合うように中仙道が通り、右に90度折れて真東に行く道は四軒寺町(蓬莱町)から谷中への道、斜め東北に入る細い道は浅嘉町から田端への間道である。ここはすでに、300年以上前の延宝江戸図に於ても5叉路であり、本郷台地と小石川台地の接点でヒルトップの地点なので、この幅狭い尾根に往来が集中していても不思議はない。
 薬師坂下は、昔は大雨の後はよく出水し、靴を脱いで歩いたものだ。坂下にある和菓子屋から左には、母校の京華通り、そのひとつ南に蓮華寺があるので名付けられた蓮華寺坂があり、そしてその角に、板橋中宿に工場のある味噌の坂上の建物があった。
 反対側には東に上る浄心寺坂がある。この坂下の圓乗寺門前に、家を焼かれた八百屋お七一家は、仮の住居を作って暫く住んでいた。圓乗寺のお子姓と、お七が恋に陥ったので、このお寺には、八百屋お七が、まつってあり、八百屋お七で大当たりをの4代目岩井半四郎の建てたお墓もある。
 この薬師坂下に、こんなにも多くの坂が集中しているのは白山上と似ておもしろい。戦前から坂の左側に住み、京華中学で同級生の小林薬局、松本植木店があった。
 坂の右側には小鳥屋があって、毎日帰校時には、友人と伝書鳩の品定めをしながら帰った。試験が始まると、迂回して白山神社に、俄かに願を懸けに行く生徒が増えた。
 この薬師坂も京華通りも、昔が想い出せないほど道幅が広くなって、すっかり変貌してしまった。
 明治41年4月12日に神保町から春日町まで開通した線路が、翌42年1月20日には指ヶ谷町まで、43年4月30日には白山上まで延長された。
 大正3年には、『6』番、巣鴨車庫前〜薩摩原(三田)間が通る。昭和初期の5年までは、『24』番、下板橋〜日比谷間が通っていた。翌6年には『18』番と番号が変更された。

方向板に名の出た
東洋大学

 三田からやって来る『2』番の終点東洋大学前を、以前は白山曙町といった。とないに数ある大学の中で、都電の終点として方向板に名前が出ているのは、「東洋大学前」だけである。同じく三田から来た『37』番の千駄木2丁目と同様に、この終点は駅前でもなく、車庫前でもなく、交差点でもなく、ただ単なる町中の浮いたような所に返しポイントがある。左側に見えるのが東洋大学と、その系列の京北学園の校舎である。
 東洋大学は、もともとは哲学館といって、中野の哲学堂を建てた井上圓了博士が、明治20年に本郷龍岡町の春日局の墓所にある隣祥院に開校したのに始まる。翌年、本郷蓬莱町(向丘2丁目)に校舎を建て、午前中を棚橋一郎の郁文館中学に貸し、哲学館は午後から授業を行った。この校舎は、夏目漱石が「我輩は猫である」を執筆した、いわゆる「猫の家」の裏であった。
 その後、明治31年に現在地に移った。この大学は、東洋部と西洋部に分かれ、東洋部は国学、漢学、仏学に大別し、西洋部には哲学、史学、文学の3科があった。明治39年から東洋大学と改称した。また、系列校の京北中学は明治32年、京北実業は明治41年に創立された。京北中学からは『三太郎日記』の著者、安部次郎が輩出している。
 昭和42年12月9日の土曜日、本日限りで三田車庫、目黒車庫をはじめ、シングルナンバーの都電が廃止される。
 (『2』番系統(三田〜東洋大学前)が12月10日から廃止になります。
         『
ながい間ご愛用ありがとうございました』 東京都交通局) との横断幕を付けたモール車がやって来た。
 朝夕2台ずつの『2』番の電車の2台目である。東洋大学前に来る(2』番は、これが最後だと思うと、急に寂しくなった。
 ここの旧称は白山曙町であった。明治44年7月14日、白山上〜小石川原町間が開通して電車が通る。大正3年には、『6』番、巣鴨車庫前〜薩摩原(三田)が通る。
 昭和に入り5年までは『24』番、下板橋〜日比谷間が通っていたが、翌6年に『18』番と番号が変更された。
 戦後は『18』番、志村坂上〜神田橋、『35』番、巣鴨〜田村1丁目、そして『2』番が三田から来て、ここで折り返していた。『2』番は昭和42年12月10日廃止された。