21系統(千住4丁目―水天宮前)









9.011km

千住4丁目-北千住駅-足立区役所-千住仲組-千住大橋-南千住6丁目-三ノ輪橋-三ノ輪車庫-金杉2丁目-金杉仲通-金杉1丁目-坂本2丁目-下車坂-上野駅前-御徒町2丁目
-御徒町1丁目-和泉町-秋葉原駅東口-岩本町-元岩井町-小伝馬町-堀留町-人形町
-水天宮前

S 3. 7

S44. 3

東都最古の千住大橋

 日光街道に架る千住大橋は、青磁色の古典的な鉄橋で、昭和2年に造られた。橋上の銘板には、ただ「大橋」とだけ書かれていて、なかなか貫禄がある。
 徳川氏入府後、最も早く架けられたのが、この千住大橋で、文禄3年(1594年)にできた。千住大橋から上流を荒川、下流を隅田川といい習わしているようだ。ここまで溯ると隅田川の川幅も狭く、92.5メートルしかない。
 明治の昔には、吾妻橋、厩橋、両国橋、新大橋、永代橋の五橋を隅田の五大橋といった。何れも古典的な鉄橋であったが、関東大震災で新大橋を残して凡て灰燼(はいじん)と帰したので、大正から昭和初期にかけて架けかえられた。
 以前は隅田12橋といい、千住大橋を筆頭に、白鬚橋、言問橋、吾妻橋、駒形橋、厩橋、蔵前橋、両国橋、新大橋、清洲橋、永代橋、勝鬨橋の12を数えたが、現在は、佃大橋、隅田川大橋が新たにできて、隅田14橋となった。もっか計画中(完成)の、浅草から隅田公園への桜橋が架れば、隅田15橋となる。
 「ことし元禄2年ニャ・・・・・・・」で始まる松尾芭蕉の「奥の細道」の冒頭に出てくるように、深川の小名木川の万年橋近くに住んでいた芭蕉は、多くの門弟たちに見送られ、舟で隅田川を溯り、千住大橋のたもとで陸に上がり、  「行春や鳥啼魚の目は泪」   の句を矢立の初めとして、日光街道を北に、弟子曽良を随行して長途の旅に立った。
 その記念の句碑が、橋の左手前の素戔雄(すさのお)神社の境内に立っている。この土地の日とは素戔雄神社を南千住天王様と呼んでいる。
 宮司の能見坊さんは、連綿と20数代も続いて社をお守りしている。3年毎の6月上旬の天王祭には、台輪4尺2寸の御本社神輿が2天棒で担がれ、道中の諸所で、大きく左右に神輿振りを行う勇壮なものだ。
 都内でも元三島神社、三島神社、諏訪神社と共に特色ある担ぎ方で、われわれ他の神社の氏子にはできないものである。
 大正元年12月29日に三ノ輪橋から千住大橋まで線路が延長され、対象3年には『7番』、人形町〜千住大橋間の電車が運転される。
 千住大橋は昭和2年に木橋から鉄橋に架けかえられ、翌昭和3年7月24日に千住大橋〜土州橋間の『29』番が開通した。これは翌6年『22』番となり、昭和19年には土州橋行きから水天宮行きと短縮された。
 戦後は、『21』番、北千住〜水天宮間と方向板が改められたが、昭和43年2月24日、三ノ輪橋〜千住4丁目が短縮されたのに伴って、千住大橋を渡る都電は消えた。

 寛永寺坂を下りて坂本(下谷)2丁目の辻を左に折れる道は、三ノ輪へ続く根岸の電車通りである。道の西側は関東大震災にも戦災にも無傷だった。
 東京の下町では貴重な古い瓦葺の家並みが続いている。この奥のほうに、正岡子規も、中村不折も住んでいた旧居跡がある。
 明治の昔は、鶯の名所として知られ、文人墨客の好んで仮寓(かぐう)するところであった。

上野駅前

 この電停は、ターミナルの駅前にふさわしい幅広の安全地帯を持つもので、中央通りの
、昭和通りの21の各系統が集まり、4本の線路が並ぶ様子はヨーロッパの駅前風景を思わせるものがあった。

 ここには、昭和43年4月1日に駅前大歩道橋が架けられ、安全地帯と直結していた。
 昭和44年5月31日には首都高速道路1号線が開通、同年10月25日限りで
系統が廃止され、昭和通りからレールが消えた。

 昭和45年には、首都高速の上野ランプ建設に伴い、Uターン路確保のため、安全地帯が大幅に削られてしまう。

 そして、昭和47年に都心から全ての都電が廃止され、当然のことながら安全地帯もなくなった。歩道橋から安全地帯への昇降用階段も取外された。歩道橋は、平成元年10月に幅の広いペデストリアン・デッキ「ジュエリー・ブリッジ」に生まれ変わったため、今では電停への階段も全く分からなくなってしまった。

 ところで、上野駅前には、昭和2年に、日本初の地下鉄が東京地下鉄道によって上野〜浅草間に開通した時、すでに安全地帯への連絡階段が設けられていた。「東京地下鐵道史・坤」に収載の平面図に見られるように、市電乗り場への2か所(後に1か所)の出入口があった。

 東京地下鉄道では、当時他の各駅でも意匠を凝らしたデザインの出入口が設計されたが、上野駅のそれも、曲線状の屋根を持つモダンなデザインであった。戦後は直線的な機能本意の形に変わったが、昭和42年8月に、首都高速道路1号上野線の工事に支障となるため、出入口上家が撤去されている。

 今、かつて安全地帯だったところは人を容易に寄せつけない中央分離帯となっているが、ここに取り残された地下鉄出入口は、シャッターを閉ざされ、非常用出入口になって今も見られる。

だだっ広い岩本町交差点

 都電王国、須田町の交差点から東に歩いて来ると、昭和通りに交差する所が岩本町である。ここまで来ると東の方に、日大講堂(戦前、相撲の殿堂国技館)のドームが見えて来る。この交差点では、東西に12番、25ばん、29番が、そして南北に13番、21番が交差する。ただ、ここは道幅がだだっ広いので、これだけの電車が交差しても、あまり車輪の音が反響しないのが私には物足りない。やはり交差点の音は「ガタンガタン ガタンガタン ガタンガタン ガタンガタン」と、前後合わせて4つの車輪が、交差したレールをクロスする時の響きが聞えてこなければつまらない。
 関東大震災前には、須田町から岩本町辺りをとおって柳橋までの電車通りは、現在の道より1つ北の神田川に沿った細い道であった。神田川の南の提に柳が植えられていて、柳原土手と呼び習わされていた。今は柳森神社というのがあって昔を偲んでいる。そこの柳原通りは、セコハンの着物を売る店が軒を連ねた古着屋街で、新橋から芝大門にかけての裏通りの日陰町と共に有名であった。震災後に改正道路ができ、電車は広い路を通るようになった。
 昭和18年頃には、この岩本町の書籍配送所には、中学生が学校の休みに勤労奉仕に来て働いていた。今次大戦中、若い働き手は次々と戦地に送られ、中学生がその代わりに労働をしていた。
 東京の中学生達は、全国の中学校や女学校に、新学期用の教科書の荷造りと輸送を手伝っていたのである。各地方の学校ごとに教科書を束ねてリヤカーに積み、秋葉原なで運ぶのが仕事だった。春風に自転車のぺタルを踏んで、流行歌など口ずさんで、この辺りを走ったのは、もう半世紀も前のことです。
 今は、昭和通りの上を高速道路が蓋をしたように蔽いかぶさり、大きな空は望めない。
 東京市街鉄道が明治36年12月29日に、神田橋から両国まで開通させた時に始まる。当時は須田町の交差点から神田川に沿った南の柳原土手通りを走ったので、現在の和泉橋の近くを走った。停留所名は和泉橋であった。
 南北には、明治43年9月2日に、人形町〜車坂町間が開通して、ここが交差点となる。
 大正初期の3年時には、2番中渋谷ステーション前〜九段、両国、3番新宿〜九段、両国、10番江戸川橋〜江東橋、7番人形町〜千住大橋間が交差した。関東大震災後の改正道路で現在地が交差点となった。
 昭和初期(5年)までは、14番渋谷駅〜両国橋、17番新宿駅前〜両国橋前、29番千住新橋〜土州橋間が交差する。翌6年には12番新宿駅前〜両国橋前、28番亀戸天神橋〜九段下、29番錦糸掘〜日比谷間、22番千住新橋〜土州橋間が交差する。
 戦後は、12番新宿駅〜両国橋、25番西荒川〜日比谷、29番葛西橋〜須田町、13番新宿駅〜水天宮、21番北千住〜水天宮となる。
 昭和43年3月31日から12番、13番は岩本町で折り返し、28番は須田町止まりとなった。同年9月29日から25番は廃止、21番は44年10月26日から、12番、13番は共に45年3月27日、29番は47年11月22日から廃止となった。

風俗の町『吉原』

 「吉原」は保之佑の浜町の家から1キロメートル離れた人形町一帯のことである。この辺り、江戸時代「吉原」と言われ、いまで言う公認の風俗の町だった。

 「吉原」を開いたのは、北条家の家来筋に当たる「庄司甚右衛門」という人物である。姉は北条氏政の愛妾で、父が小田原城落城とともに討ち死すると、甚右衛門は江戸に落ち延びる。

 1600年、家康が関ヶ原に出陣する時、鈴ヶ森に店を出し、遊女に茶の接待をして、侍を慰めた。従軍慰安婦の始まりのようなものなのだろう。後に「吉原」という幕府公認の色街となった。

 ここ以外、江戸では売春行為を認めなかったので「吉原」は大いに流行った。ものの本には「神田佐柄木町堀丹後守の屋敷の前にある丹後風呂は群を抜いていた」と記録されている。トルコ風呂(ソープランド)の起源である。

 「吉原」は1655年正月の「明暦の大火」で類焼し、その年、「吉原」は浅草日本堤に移転した。

 それ以来、人形町あたりを「元吉原」、浅草日本堤を「新吉原」と言った。

『東國紀行』(浅草)

角田川も見えわたるに森のようなる梢ありとへば、關東順禮観音浅草と云所となん立よりて結緑すべしなり。

  秋ならぬ木末の花もあさくさの露なかれそう角田川かな

 などの詠歌がある。いずれも往昔の浅草を推測するに足るものである。このように浅草は往古より観音堂を始めとして、待乳山、駒形堂、石枕、浅芽ケ原、妙亀塚、釆女塚などの旧蹟に富んでいるので、文人詞客が訪れ、和歌や詩文などにも多く描かれている。

 明暦の大火により吉原遊郭も旧地人形町から今の新吉原に移り、当時の伊達男共は草深き山谷の土手伝いに通ったものである。また天保改革によって江戸三座と名高かった市村座、中村座、森田座などの芝居小屋も、猿若町に寄せ移り、浅草は名実共に歓楽街として栄えてきた。


参考文献
「東京都交通局80年史」東京都交通局
「わが街わが都電」東京都交通局
「夢軌道。都電荒川線」木馬書館
「王電・都電・荒川線」大正出版
「鉄道ピクトリアル95年12月号」鉄道図書刊行会
「東京・市電と街並み」