20系統(江戸川橋―須田町)









9.538km

江戸川橋-音羽7丁目-音羽3丁目-護国寺-大塚仲町-氷川下町-丸山町-駕篭町
-上富士前-神明町車庫-動坂町-道灌山-駒込坂下町-団子坂-駒込千駄木町-八重垣町
-宮永町-池ノ端七軒町-動物園前-上野公園-広小路-黒門町-末広町-旅篭町
-万世橋-須田町

S 3.12

S46. 3

護国寺前の富士見坂

 江戸っ子はよほど富士山が好きだと見えて、江戸時代から富士見坂と呼ばれている坂は、都内だけで15以上にもなる。しかし今では空気が汚染したり、ビルが増えて富士が拝めない所が多い。実際に望見出きるのは、2、3箇所しかないらしい。
 小日向・小石川台地の大塚仲町から西へ下る長丁場の富士見坂も、ご多分にもれず富士は眺められないが、20年間の歳月の隔たりを感じさせないのは、護国寺と、都島岡墓地の緑の空間があるためである。本年2月に高松宮のご葬儀が行われたので、都民の多くは、豊島岡墓地の存在を再確認したことだろう。
 この富士見坂の周辺の、大塚仲町、大塚坂下町、青柳町、東青柳町、音羽に各町は、戦災を受けなかった。大正の大震災にも無傷だったから、実に古色蒼然たる日本家屋が残っていた。しかし、坂下に地下鉄有楽線の護国寺駅があるので、年々マンションや貸しビルが増えて、屋根が高くなりつつある。この坂下辺りは、昔の弦巻川があったところが暗渠になっていて、たどりながら歩くと、湧水や井戸があり、意外な東京を発見できる。やはり電車の敷石の階律が、坂に一つの風趣を添えていた。

国道17号
 
 巣鴨車庫前方向からは、西丸町・・駕籠町・・北部原町・・南部原町・・曙町・・白山上・・指ケ谷・・八千代町が現千石・白山地域にあった停留所で、現在の場所で言うと、17号通りは、西丸町駅は、大鳥商店街入口付近、駕籠町駅は、下りは地下鉄千石駅A1出口付近、上りは富士銀行前、北部原町駅は、三河屋酒店付近に、南部原町駅は、六書堂印舗店付近に、曙町駅は京北学園前、白山上駅は生協前、指ケ谷駅は坂下の4又路のあたりにありました。
 不忍通り側は上野に向って氷川下町駅は猫又坂を下ったところに、丸山町駅はカテリーナ千石の前、駕籠町駅は旧交差点の手前(現マクドナルドのあたり)に、早稲田方向は交差点の反対側に駅がありました。
放射9号線(バイパス道)は昭和45年頃に新たに開通させた道ですが、17号(中仙道)も放射9号線に接続するところまで千石1丁目、四丁目側に道路が拡張されていますし、不忍通り側も交差点近辺は道路が広げられています。これにより、多くの商店が無くなってしまいました。
 当時の道幅は、国道17号も不忍通りも現在の東洋大学前あたりの幅と同じくらいでした。
ここに、上り下りの都電の軌道2車線(複線)があったのです。
車道はその外側に各1車線あり、都電の停留所は安全地帯と呼ばれる一段高い島状の場所にありました。安全地帯は当然車道と線路の間の部分にあったわけで、縦(幅)は1m横(長さ)は都電の長さよりちょっと長い程度のもので、安全地帯と呼ぶにはふさわしいとはいえない場所でありました。
 もっとも停留所の全てに安全地帯があったわけではなく、都電が停留所に止まると車は手前で止まって待ち、乗客が乗り降りしていました。
 
中仙道駕籠町

 終戦後の航空写真を見ると、中仙道と、不忍通りが交差し、北東にある広大な緑地の名園六義園は、ハッキリわかるが、周囲は焦土と化している。
 明治以後、三菱の岩崎邸になった六義園は、後に東京市に寄付された。この西側の長四角の整地された一帯は、通称大和文化郷という岩崎さんの分譲住宅街である。旧町名は上富士前町といったが、不忍通りをはさんだ南側が駕籠町になる。元禄年間、幕府の駕籠の係り51人に土地を給して住まわせたのが名の起りで、府立5中(小石川高校)や駕籠町小学校が空から見える。
 ところがである、駕籠町変じて千石1丁目が今の名、千石のいわれを聞いて驚いてはいけない。(この西方の氷川下を流れていた細流をば、小石川といい、千川(或いは小石川)沿いに出来た村で、もとは、小石川村であった。
 永禄年間(1558〜1570年)北条氏の家臣島津孫四郎の土地及び法林院があった。
 江戸時代に入って新田を開き、初め伝通院領であった。後、上地して、砂礫
を取って護国寺造営の用に当てた。享保年中(1716〜1736年)、その跡を開墾した。旧来百姓地で、氷川田圃と称した。
 明治24年氷川下町と呼んだ。氷川台(簸川神社のある台地)の下の低地にあるので、このように唱えたといわれる。
 氷川田圃は、明治30年代に埋立てられて、人家が建ち工場が設けられた。谷の中を流れるのが千川で、大雨の時には水が溢れて、両岸の民家が水害を受けることが多かった。
 昭和9年千川は暗渠となり、水害から逃れることができた。戦前までの小石川区の区名にまでなった川は、上流を千川をば称えるにより、千と石とを、くっ付けて千石とはなしたり)という解説を聞けば、いかに新住居表示がいい加減なマヤカシものだかわかる。
 昭和62年には中仙道は拡幅整備され、歩道には柳並木が、整った街並みになり、中央分離帯もでき、石畳の電車道が懐かしい。
 
神明車庫

 昭和20年3月10日の大空襲の約1ヵ月後、4月13日・14日にわたって、それまで焼け残っていた神田地区、駒込地区、尾久地区に集中的に焼夷弾が投下され、5月24日・25日と並ぶ4大被害を出した。航空写真で見るに、神明車庫だけが形を存し、田端駅までの広大な地域は廃墟と化している。
 米軍機は空襲の手始めとして、まず数百個の照明弾を投下する。照明弾には、落下速度を弱めるための羽根が上についているらしく、ほとんど停止しているような鈍さで、何燭光だか知らないが、地上を明白に照らし出しながら落ちてくる。それを目標にして、次は焼夷弾を投下してくる。焼夷弾は、親子爆弾のように途中から傘形に分散して落下するのだが、時たま、ソケットがバラケないで、数十発が1束となって落ちる事もある。こいつは凄まじい火柱となって一気に燃え上がって手がつけられなかった。
 この界隈は、空から見ても道路が乏しい。それでも空襲時の死傷者が少なかったのは、先日焼けた罹災地に逃げられたからだ。
 今や、神明車庫跡には、高層の都営住宅が建っている。神明町という町名は、新住居表示に伴い本駒込6丁目になってしまった。神明町車庫は『20』番、『40』番、系統を受け持ち古典的な1000形と1100形とが多く在籍していた。車庫跡に建った都営アパートの下は小さな公園になっていて6000形と乙2号が保存されている。
 20・40系統の受持。大正9年大塚車庫の分庫として開設された、大塚車庫とよく似たレンガ建ての建物が特徴だった。昭和42年12月9日40系統が廃止され、昭和46年3月17日に20系統が廃止されるとともに閉鎖された、現在車庫跡は文京区の公共施設と都営アパートになっていて、敷地内の公園には6000形6063号と無蓋車乙2号が保存されている。
 車庫に面した不忍通りの 町並みは以外にも、当時の面影を残していた。車庫跡は公共施設へと代わり煉瓦建ての建物は失われたが、裏手の公園に保存された2両の車両がわずかにここにかつて路面電車が走り車庫があった頃の記憶をとどめていた。

団子坂(千駄木坂)

 本郷台から東の根津・谷中の谷に下りる急坂を、団子坂とも千駄木坂とも七面坂ともいうそうだが、汐見坂、潮見坂の名もある。坂の途中で団子をひさぐ家があったので団子坂の名となり、また、坂下の脇に七面堂があったので七面坂とも呼ぶが、私は川柳の
     
団子坂 あんのごとくに ころげ落ち の感じが好きだ。
 団子坂から千駄木林町にかけては、昭和20年3月4日朝、悪天候の中での大空襲で、取分け爆弾を含む焼夷弾を落され、多くの民家が壊滅し、凄まじい被害を出した。敵機から投下される爆弾の一種独特な、身のよだつ「サァー」とか「ピューッ」とかいう音は、雷と同じで、自分の耳に聞えているうちは、幾分遠くに離れたところに落下するが、自分の頭上から来る爆弾の音は聞き取れない。それが、落下して破裂するや、とたんに大音響と共に、猛烈な地響きと爆風が硝子戸をつんざく威勢である。団子坂近くにあった私の家は、3月10日に焼かれたが、約1週間前の団子坂下の被害を目撃して、我家も被爆近しと覚悟を決めていた。
 それから20年、団子坂の途中には、藪そば時代からの面影を辛うじて伝える今晩軒(大衆食堂)が、まだ残っていたのだった。坂を下りきると不忍通りだ。

秋祭りの
根津権現祭

 上野台地と本郷台地との狭間に、藍染川に沿って開けた根津には、江戸の社そのままの根津権現がある。もとは団子坂の上にあった社が、今の土地で6代将軍家宣が生れて、西の丸に入るや、将軍綱吉は跡目ができたのを喜んで、根津の地に壮麗な権現造の神社を造営させた。
 諸大名に工事を割り当てた、天下普請であった。毎年9月20日頃に行われる根津神社の大祭は、一時、山王、神田と共に寺社奉行の取り行う三大祭として、天下祭のひとつであった。本社には、6代家宣公寄進の、台輪が5尺3寸もある宮神輿が3基もあって、戦前は白鳥かつぎで一年おきに氏子各町を渡御した。この3基の御神輿は大きさも都内随一で、造りも江戸中期の型として貴重なものである。
 神明町から根津を通って上野広小路に行く『20』番の電車は、狭い根津の通りを、気を付けながらの運転である。もう35年も前から踊っている根津音頭の行列に会う。
 
        そろたそろたよ  手拍子そろた
        仲もよいよい   おどりもはづむ
        こころ一つの   七ヶ町
        いとしあの子も  ちょいと来た

        根津はよいとこ  どなたもおいで
        今日も笑顔で   商売繁昌
        行こか参ろか   いそいそと
        昨日一昨日    こんばんも

        むかしなつかし  逢初橋で
        今朝も指切り   約束固く
        今宵誰待つ    友を待つ
        肩をならべて   帰りへと

お彼岸頃に行われる根津神社のお祭りが終わると、秋は、一足飛びでやって来る。あとは本郷4丁目の桜木天神のお祭を最後に、10月は神無月で神様が出雲へ御出張とか。江戸では、お盆の7月と共に、10月には、お祭は無い。
 ここはもと根津八重垣町といった。大正6年7月27日に三橋〜動坂下間が開通。『7』番、動坂下〜上野間がここを通る。大正12年には、『13』番、神明町車庫前〜芝橋間とまる。
 昭和に入り5年までは、『27』番、神明町車庫前〜芝橋と、『28』番、矢来下〜上野間が走るが、翌6年の番号改正で、『27』番が『21』番に、『28』番が『20』番となる。
 昭和15年に、『20』番は矢来下〜新橋となり、さらに19年には、『20』番、神明町車庫前〜新橋、『28』番、江戸川橋〜上野公園となる。
 戦後は、『20』番、江戸川橋〜須田町(臨時の「20」番、池袋駅〜八重洲通)、『37』番、三田〜千駄木2丁目、『40』番、神明町車庫前〜銀座となる。『37』番、『40』番は共に昭和42ねん12月10日、『20』番は昭和46年3月18日から廃止となった。

根津の出桁造り

 江戸の地形は、北の方から掌をぴたっと伏せた恰好をしているようだ。五本の指が左の方、つまり東の方から上野台地、本郷台地、小日向台地、牛込・赤城台地、そして四谷・麹町の台地。さらに南の方には麻布台地、三田・高輪台地があった。
 関東ローム層が江戸湾に張り出していて、往代には、満潮ともなれば、汐が台地の麓までひたひたと洗っていたに違いない。関東の陸地化運動で海が次第に遠浅なり、やがて今日のようになった。
 上野台地と本郷台地の谷間を石神井川の支流の谷田川が流れ、この川は別名、藍染川ともいって、不忍池に注いでいた。谷田川の流れに沿って根津を走っていた電車は、江戸川橋から上野広小路に通う『20』番だ。
 根津宮永町で言問い通りを突っ切ると、左側に、瓦葺の出桁造りで千本格子の入った日本家屋が見えてくる。三田の爪革(つまかく)として知られる三田平吉さんのお店で、明治42年頃建てられた。
 着物が婦人の日常の装いだった昔は、雨が降れば、蛇の目傘に吾妻コート、足元は、黒塗りの足駄の爪先に革で蔽いをかけて外出した。浮世絵にでも出てきそうな女性が、そこの横丁あっちの路地を歩いていた頃に盛えたお店である。その後、大震災を境にして洋裁が増え、今次の大戦で更に需要が減って、三田さんは爪革から革草履屋になった。しかし、時の流れというものには勝てず、息子の三田平八郎さんは一橋大を出ると、跡を継がずオーボエ奏者になった。
 この2階建の裏に、これまた都内では稀な木造3階建の瓦葺がある。これも平吉さんが大正6年に建てたもので、当時のあらゆる限りの木材と技術で建てたので今でもびくともしない。現在では、この建物をそっくり買い取った高須治雄さんが、串揚げ料理の「畔亭」を経営している。
 ここは以前、逢初坂といった。その後、根津宮永町から寝ず1丁目と変わった。

雪降る
池之端2丁目

 根津の電車通りは、逢染橋といった根津宮永町を通って暫く行くと、左側に上野動物園の水族館が、右に横山大観の住居跡を眺める所で尽きて、やがて左に曲がると、不忍池の北畔から東の池之端を走る専用軌道となっている。「軌道内立入禁止」の立て札があるが、勝手しったる近所の人々は、自動車の来ない安全な道だとばかり、通勤通学の途上に結構歩いて、いて、時たま都電の運転手から、「ポー ポー」と、警笛と大目玉を喰らう。
 根津の通りからこの専用軌道に左折する所は、池之端七軒町の停留がであるが、こんないい名前が、今は池之端2丁目となってしまった。何をかいわんやである。
 昭和44年の3月は2度の大雪に見舞われた。一は3月4日に三陸沖の低気圧に吹き込んだ寒気で、都心でも20センチを越した。それから間もなく、3月12日の大雪となった。その日の「朝日新聞」の夕刊は、「気象庁は前日から雪を予想していたが、12日朝、東京にはこの春、2度目の大雪警報を出したのをはじめ、各地に大雪、風雪、電線着雪などの注意報を発令した。この雪は12日夕方まで降り続き、積雪は東京都心でも、30〜40センチ、内陸部では40センチ以上にのぼる見込みで、東京では午後1時には28センチに達し、去る4日の大雪を上回り、3月としては観測史上記録的な大雪となった」と報じている。
 すでに昭和42年12月に姿を消した『40』番の電車は間に合わなかったが、『20』番の江戸川橋〜須田町間の電車は、この大雪に会うことになった。専用軌道なので他の交通機関の踏み入れるわけが無く、降り積もった雪が綿のようにふんわりと重なって白一色に包んでくれた。
 朝だというのに、電車はライトをつけてやって来た。こんな大雪は、長い都電の歴史でもそんなにないはずだ。都電は雪に強いし、吹雪をついて進んで行った。
 かつて上野公園の電停で中央通りから分かれた20・37・40系統の電車はそのまま不忍通 りを進まず、不忍池の北東岸を専用軌道を走り池之端七軒町で不忍通りへと合流していた。途中には動物園前の停留所もあり、動物園の上園と下園を結ぶモノレールと立体交差していた。この区間の廃止は20系統の廃止された昭和46年(1971)3月17日。
 上野公園の側から専用軌道跡を辿ってみる。専用軌道の入り口辺りは新しい店舗が建っているので、公園の入り口から回り込むと軌道跡は公園の敷地に取り込まれてしまっている。木々の間から見えるビルの裏手が、かつてビルと公園の木立の間を進んでいた軌道をかすかに思い描かせる。弁天堂へ続く道と交差する手前は軌道跡の敷地に売店が建っている。そこをすぎると不忍池に沿った専用軌道は道路の歩道となっていて、しばらく行くと今もモノレールが頭上を横切っている。その後、軌道跡は上野公園の縁に沿うように不忍通 りへと向きをかえて進んでいるが、その辺りは動物園の敷地に取り込まれていて辿ることができない。回り込んで不忍通 りの手前弥生会館の横辺りへ行くと、通りへアプローチしていた辺りの軌道跡が公園のような感じで残っていて、振り返れば動物園方面 の軌道跡も施設の中の植え込みのようにして残っていた。

モノレールのある動物園

 「博物館」とか「動物園」という言葉は、福沢諭吉が慶応2年に著した「西洋事情」に始めて使わられた。幕末の頃、洋学の発達していた各藩では、独自の留学生を欧州に送っていた。特に鹿児島の島津藩では、五代友厚などを含む19名の留学生を英国に送りこんでいた。当時、すでに鹿児島の城内には「動植館」なるものが存在し、欧州で見聞した五代友厚は「動物館」建設の構想を懐いていたが、実現しなかった。
 その頃、ばくふはの蕃書調所内の「物産所」にいた信州飯田出身の田中芳男は、伊藤圭介について本草学と蘭学を修め、江戸へ来てからはフランス語まで勉強していた。後に、欧州の万国博覧会に渡航した田中芳男は、そこでの見聞と彼の才能を認めた人々の助力によって、博物館と動物園の設置までこぎつけたのである。
 明治15年3月20日、農商務省の博物館の附属園として動物園が開園されてから、今年で120年以上経つ。その後、動物園は宮内省の手になり、大正13年、昭和天皇の御成婚を記念して東京市に下賜され、「恩賜上野動物園」となった。
 本郷(東京)の小学校の遠足というと、1年生坊主は、春は植物園、秋は動物園と決まっていて、遠足だから文字通り徒歩で行った。白熊やオットセイのいる池のあたりも、もう半世紀も眺めている同じ光景だ。
 昭和26年の元日からは、不忍池の方に水上植物園が新しく開設された。動物園の入場者は、人気者がいる時は常に安定している。昔から、カバ、ゾウ、キリン、チンパンジーなどが、スターであったが昨今では中国から来たパンダに人気が集まり、子供に混じって、大人達もここでストレスの解消をしているのが微笑ましい。
 池之端七軒町の次の停留所が上野動物園、ここは以前は東照宮下といった。ちょうど電車の上を都営のモノレールが、動物園の二つの駅の間を往復している。このモノレールは昭和32年12月からあって、世界第2号、日本で最初の者である。
 3月の雪とちがって2月の雪は細かくて乾いているので解溶けない。不忍池に沿った専用軌道には、誰も足を踏み入れる者がなく、ふんわりと綿のような雪が積もっている。
 東照宮の下を走る『20』番の電車は、いつもとちがって、車輪の音も響かせないで静に進む。
 戦後初めて、「建国の日」が制定された昭和42年2月11日は前日からの雪が降り止まず、電車の歴史の中での大雪となった。

池之端〜上野公園専用軌道跡

 池之端七軒町(現在の池之端二丁目)〜上野公園までの間、都電(20・37・40系統)は不忍池を半周する形で専用軌道を走っていたようです。春には桜、夏には蓮、冬は水鳥など、気分は小旅行。都電にしては車窓風景がすばらしい箇所だったようです。現在はまったく面影がなく、左の画像は池之端二丁目。不忍通りから専用軌道へ向かう分岐点付近と思われます。
 画面中央付近、「グリーンクラブ」の看板と桜の木付近から専用軌道が始まっていたものと思われます。現在は上野グリーンクラブの敷地内になっているようで、専用軌道跡をたどることはできませんでした。専用軌道はこの先、上野動物園・上野公園の敷地内を通っていたようです。
 上野公園側の専用軌道入口と思われる場所です。対比画像がないためなんともいえませんが、恐らく現在の上野公園入口付近から専用軌道に入っていたものと思われます。今は公園の入口なのでここが専用軌道だったのか判断することは難しいのですが、道路に対しての入口の角度が専用軌道跡を連想させます。

ここは池之端から神明町に向う根津の通り、関東大震災にも戦災にも難を免れた古い家並みが続く、『37』番の電車は、千駄木2丁目で折り返すとすぐカーブにさしかかる。
 左に登る坂は根津裏門坂、途中を右に入れば、森鴎外の観潮楼に続く藪下通り、坂上の道を右折すれば夏目漱石の猫の家に向う。角の映画館は、芙蓉館から根津東宝、根津東映と名前が変わった。

 

参考文献
「東京都交通局80年史」東京都交通局
「わが街わが都電」東京都交通局
「夢軌道。都電荒川線」木馬書館
「王電・都電・荒川線」大正出版
「鉄道ピクトリアル95年12月号」鉄道図書刊行会
「東京・市電と街並み」