都電一代記 
  
 

 東京の公共乗物は、明治5年新橋〜浅草間に乗合馬車を開業させたが、今のように舗装も無く、石ころだらけのガタガタ道を走るという事で、非常に乗り心地の悪い乗り物だった。
 
 東京市、都電の歴史は、明治15年6月新橋〜日本橋に開通した鉄道馬車から始まった。だが、路面電車としては、日本一早く開通した京都より8年遅く、また、全国では8番目の開通だった。
 
 開通には、遅れを取ったが、その後の普及は、めざましく、戦後の1日の輸送人員の最高は、昭和30年の174万人。
 
 日本一は、おろか世界一の利用者を得、市、都民の気楽な「足」」となって昭和47年まで、自動車の普及により32系統の荒川車庫前〜早稲田の荒川線のみを残して全部廃線になった。
 
 明治36年8月22日、従来の馬車鉄道のレールの上に、そのまま同会社が、東京電
車鉄道会社と生まれ変わる事によって、品川〜新橋間の営業運転を開始する事になった。軌間はそのまま受け継いだ。
 
 首都、東京の路面電車は、京都に遅れをとり第8番目の路面電車となって明治36年8月22日、従来の馬車鉄道のレールの上に、そのまま同会社が東京電車鉄道会社と生まれ変わる事によって、品川〜新橋間の営業運転を開始する事になった。軌間はそのまま受け継いだ。
 
 地方から上京した見物客が市電を利用しやすいようにと、初めて系統番号を作り、側面に数字を切り抜いた菱形の板を取りつけた。この系統番号は行き先ごとの番号ではなく、車庫ゴトの番号であった。
 
 1番:三田車庫(黒色)、2番:青山車庫(緑色)、3番:新宿 車庫(赤色)、4番:本所車庫(亀沢町:後に柳島車庫:水色)、5番: 大塚車庫(茶色)、6番:巣鴨車庫(ねずみ色)、7番:三ノ輪車庫(橙色)、 8番:日比谷車庫(後に青山南町:紫色)となっていたが、翌大正4年7月には、その次ぎに外濠循環として9番:青山車庫(オリーブ色)、10番: 本所車庫(錦糸堀車庫:藍色)、11番:広尾車庫(桃色)だった。
 
 昭和22年頃から、都電の車両の新造や改造が着々となされ、800形、3000形、4000形、6000形が数多く新造、改造されたグリーン系から明るいクリーム系に改められました。
 
 昭和29〜31年にかけては、7000形が93両も新造され、昭和31〜 32年には、131両もの8000形を造りました。
 
 そして、昭和37年12月、都電最後の新造車として、7500形が20両出来ました。自動車が急増し、限られた路上を都電と競合しつつ、渋滞しながらの交通戦争となり、昭和34年10月20日からは、遂に都電の軌道内に車の乗り入れが許可されました。
 
 昭和38年11月末日を限りに第14系統が廃止、第9、10系統の経路を迂回させるなど、都電は次第に路面から追われました。
 
 昭和42年12月9日,都電廃止の第1次総合計画により、都心から都電の姿が消えました。そして、昭和47年11月11日を限りに、現在の荒川線ただ1つを残し、他の全ての都電は廃止されました。
 
 これから、系統別に紹介します。

系統 区間 系統 区間 系統 区間
 1 品川駅前〜上野駅前 15 高田馬場駅前〜茅場町 29 葛西橋〜須田町
 2 三田〜曙町 16 大塚駅前〜錦糸町駅前 30 寺島町2丁目〜須田町
 3 品川駅前〜飯田橋 17 池袋駅前〜数寄屋橋 31 三ノ輪橋〜都庁前
 4 五反田駅前〜銀座2丁目 18 志村坂上〜神田橋 32 荒川車庫前〜早稲田
 5 目黒駅前〜永代橋 19 王子駅前〜通3丁目 33 四谷3丁目〜浜松町1丁目
 6 渋谷駅前〜新橋 20 江戸川橋〜須田町 34 渋谷駅前〜金杉橋
 7 品川駅前〜四谷3丁目 21 千住4丁目〜水天宮前 35 巣鴨車庫前〜田村町1丁目
 8 中目黒〜築地 22 南千住〜新橋 36 錦糸町駅前〜築地
 9 渋谷駅前〜浜町中ノ橋 23 福神橋〜月島通り8丁目 37 三田〜駒込千駄木町
10 渋谷駅前〜須田町 24 福神橋〜須田町 38 錦糸堀車庫〜日本橋
11 新宿駅前〜月島通り8丁目 25 西荒川〜日比谷公園 39 早稲田〜厩橋
12 新宿駅前〜両国駅前 26 東荒川〜今井橋 40 神明町車庫〜銀座7丁目
13 新宿駅前〜水天宮前 27 三ノ輪橋〜赤羽 41 志村橋〜巣鴨車庫前
14 新宿駅前〜荻窪駅前 28 錦糸町駅前〜都庁前 荒川線(三ノ輪橋〜早稲田)

外濠電車唱歌 (中川柳涯 作歌、 深谷白川 作曲)  明治38年10月発行
電車唱歌 (いしはらばんがく 作歌、 田村虎藏 作曲)  明治38年10月発行』
東京電車唱歌双六 (明治39年11月、 画作 藤山種芳)本所区松坂町1丁目11番地



 写真は当時の「東京市街鉄道」
の木造四輪単車・定員40名の
電車。
 運転台はオープンデッキで、
風・雨・雪の日は吹き曝しである、
他社の電車も大同小異であった。
 市営以降も、運転台に風防の無
い電車も運行されたが順次新造
車両が導入された。
 写真は1653形、大正8年式と
いわれ、路面電車として最初の
「3扉・木造ボギー車」である。
 この形式から本格的にエアブレ
ーキを採用、ポールはまだ2本で
ある。
 昭和初期木造が主流であった
市電も、鉄骨木造から、半鋼製ボ
ギー車が主流となっていく。
 写真は5000形、昭和5年に、市
電最初の鋼製大型3扉ボギー車
である。
 戦後は2扉に改造された、定員
は100名の大型車。写真ではポ
ールが1本となっている。
 最盛期 写真は6000形、昭和22
年〜28年に290両が生産された、
戦後最初の新造車。
 都内全域で活躍した、その後、
車体更新が行われ、都電撤去期
までの主力車であった、定員96人。
 集電はビューゲルとなっている。
 都電の各路線廃止後も荒川車庫にて応急車(積雪時のラッセル用など)として残されてきた、唯一の動く6000形車両です。6000形は戦後290台製造されましたが、動く車両として残っているのはこの6152号のみです。
 1987年88年に約1000万円で現在のオリジナルに近い姿に補修され、応急車から現役へ復帰しました。
 しかし、座席は現代風のふかふかした物に改装されています。以前は木製でした。室内灯も蛍光灯に改装されています。
 運転手、車掌の2名の乗務員がいないと走行不可能な車両です。いわゆるツーマン式です。
おつりなどは、車掌さんの、黒い大きなガマ口かばんから、ポンとくれます。いい感じです。
 出発する時に、紐を手で引っぱってチンチンとならしたり、ニスや油の匂い、ガタゴト揺れる音、すき間風、なんともいとおしい車両です。
都電7000形は昭和28年にデビュー。001から7030までが1次車、その後改良を加えられながら特殊車など5グループに分
かれます。
このキットのモデルになった荒川線配属の7000形3次車(7051から7093)は昭和31年製造、新造増結車として配属されました。都電最後の日まで活躍しました。正面窓が下段昇降開閉式となり、両方の窓に桟がついた近代的なスタイルになりました。
都電最後(荒川線
以前)の新造車
写真は7500形、昭和37年製。
ヘッドライトと尾灯を2灯式とした、その関係で、系統番号が中央に設置された。
技術の進歩を取り入れ、運転・保守を簡易化し、軽量化が図られた。
当初は、青山車庫に配属されたが、後には柳島・荒川車庫に配属された。






(右)PCCカーパンタグラフ:菱形の集電装置
当時は無音電車と呼ばれ注目を集めました。しかし、その活躍は、1954年5月〜1967年12月の短い期間、1系統の品川〜上野の間だけを走るだけで、終わりました。
都市交通が、都電から車へと以降していく、時代の波には逆らえなかったのです。
増産して次世代の主力車両となるべく開発された車両だったのですが、現実には、7両しか製作されませんでした。

 芝浦工場  (大正9年10月)
  都電の電車の修繕・改修