41系統(志村橋―巣鴨車庫前)
総距離8.377km
志村橋-長後町2丁目-長後町1丁目-志村坂下-志村坂上-小豆沢町-蓮沼町-清水町
-大和町-板橋本町-仲宿-板橋区役所-板橋5丁目-板橋駅-滝ノ川5丁目-西巣鴨
-新庚申塚-巣鴨4丁目-巣鴨車庫前
開通 S 30. 6
廃止 S 41. 5
志村橋
巣鴨から中仙道に沿って志村橋まで走っていたのが『41』番の電車で、後方に道路が小高く盛り上がった所が、新河岸川に架る志村橋である。
新河岸川は、かっては武州川越と江戸とを結ぶ物資輸送の重要幹線であった。この辺りを三軒家と言い、江戸の昔は酒屋の新井さん、農家の内田さん、新河岸川の渡しをやっていた舟渡屋の中村さんの三軒しかなかった。
都電の系統数は、昭和25年には38系統まででした。最終段階の39・40系統は、昭和28年に、最後の41系統は、志村坂上から志村橋まで線路が敷設された昭和30年でした。
都営地下鉄三田線の開通により、41系統(巣鴨車庫〜志村橋)が廃止された。1966年(昭和41年)
5月 京成電鉄・京浜急行と直通運転を行っている都営浅草線は1435mm。東急目黒線と直通運転をする都営三田線は1067mm。都営地下鉄には3種類のゲージが存在しています。ちなみに、JR線は、新幹線が1435mm。在来線は1067mmです。
板橋のガスタンク
戦前の東京の屋根は低く、空は美しく澄んでいた。ことに北風の吹き荒れる冬の晴天には、関東平野の周辺まで見通せた。東の方に紫色に煙る筑波山、北には上毛三山、そして西の方には大山、丹沢、富士の秀峰、さらに関東山脈の背後に白雪を頂いたアルプスまで見渡せた。
これらの山々をバックにして、東京での高い建物といえば、国会議事堂、京橋の第1生命館、東大の安田講堂、そして北千住のお化け煙突、砂町と南千住と板橋のガスタンクなどが有名であった。
砂町と大森のガスタンクはとてつもなく高く、周囲はがっちりした壁に包まれており、よそのが金網状の円形の枠にはめられているのとは異なっていた。なんでも空から爆撃に備えて作ったのだと、当時はいわれていた。
巣鴨車庫前から『18』番か『41』番の電車に乗って、中仙道を北に進むなり、直ぐさま目の前にはだかるようにして見えるのが、この「板橋ガスタンク」である。
実際には旧滝ノ川区(北区)にあるのに、誰も「滝ノ川のガスタンク」とは呼ばない。このような古典的なガスタンクのあったのは、芝浜、南千住、新宿十二社と板橋などで、そのいずれもが、東海道、日光街道、甲州街道、中仙道の、品川、千住、新宿、板橋という、江戸四宿のそばにあったことは不思議である。
ガスは英語のギャスが「瓦斯」という字に当てられたもので、最初は燃料としてより照明として使われた。わが国では、高島嘉右衛門が横浜で、明治5年9月29日に神奈川県庁付近、大江橋から馬車道、本町通りにかけてガス灯に点火したのを嚆矢(こうし)とし、東京では、明治7年12月18日、金杉橋から京橋までが点灯された。
その後、民間の需要も増大し、ガスを遠くまで圧送するので、このようなガスタンクに貯蔵し、整圧をして高圧ガス管で配送している。今は、球形のものに改められつつある。
昭和4年5月27日、西巣鴨から下板橋まで線路の延長を見、次いで戦時中、軍需産業の通勤者の為に、昭和19年10月5日に下板橋から志村坂上までとなった。
当初昭和5年までは『24』番下板橋〜日比谷間がここを通ったが、。翌6年には番号のみが『24』番から『18』番に変更。
戦後は『18』番が志村坂上〜神田橋であったが、昭和30年に、『41』番志村橋〜巣鴨車庫前、(18)番下板橋〜神田橋となる。『41』番は昭和42年5月30日、『18』番は昭和42年9月1日から廃止となった。
板橋交通公園の7508号
板橋交通公園に保存されている、7508号です。7500形は全車青山車庫に配属されていましたが、都電の廃止が始まると、荒川車庫へ移動しました。写真の7508号は昭和43年に荒川車庫へ移動し、荒川線を除く全ての都電廃止後も荒川線で活躍しました。昭和52年には、荒川線のワンマン化に伴い、一時更新の改造が施されました。その際、帯の色は写真の青帯へ変更されています。ちなみに、現在荒川線で活躍している7500形は二次更新後の姿です。
7508号の運転台です。基本的には原型(改造前の状態)とさほど変化はありませんが、ワンマン機器が設置されています。また3枚窓の真ん中、一番大きな窓は1枚窓に変更されています。なお、改造前の7500形(原型)については、前項「東京たてもの園」の7500形をご覧ください。
中仙道にある巣鴨車庫
白山上から中仙道を北に進んで、今は千石1丁目なんて呼ばれている駕籠町の交差点を通過、なおも北に進むと、右手に山手線の巣鴨駅があり、その並びに都電の巣鴨車庫がある。この車庫は、以前は駒込車庫をも兼ねていた。
昭和の始めは、巣鴨から来た電車が白山上で左折して、「まき町通り」を進み、本郷肴町(向丘2丁目)を右折して本郷通りに入っていた。白山上と本郷肴町間にレールが残っていたものである。
巣鴨車庫の並びに、駒込浅嘉町のいわゆる「土物店」が昭和7年頃に移転してきた。豊島青果市場がある。あの大きな市場のお神輿は、根津権現氏子中の最大のもので、恐らく台輪は3尺8寸位あっただろうが、今はどうなっているだろう。
駅前商店街から斜め左に入ると、「とげぬき地蔵」をまつる高岩寺がある。毎月4の日の縁日には、巣鴨駅の改札口が手狭になる程の参拝客で賑わう。
また、この巣鴨車庫には、都電運転手の最長老の鈴木丈之助さんがいた。大正13年から昭和43年に廃止になるまで、実に45年間も電車を動かした町ベテランである。
丈さんの自慢は、巣鴨車庫から西新橋1丁目までの往復を、38分間で行って来た記録はは遂に破られなかった。
昭和42年2月の「毎日新聞」には、
『丈さんの乗る第35系統は巣鴨車庫から西新橋1丁目までの9.56キロ。沿線には学校や大会社が多いので、まだまだかなりの利用客がある。満員の車内を振り返って「都電老いたりとはいえ、これではつぶせないな」と、うれしくなるそうだが路面の混雑といったら、なんとも物凄い。全くのお手上げ。そんな時、丈さんは決してイライラすまいと心に決め、そっと昔のよき時代を思い出すことにしている」と紹介している。
小石川西丸町辺りから巣鴨橋まで、明治45年4月30日に開通した。巣鴨車庫は大正2年2月に開設された。大正3年には、巣鴨車庫は『5』番とナンバーが定まり、巣鴨から春日町廻りの薩摩原(三田)行きと、本郷肴町廻りで薩摩原行きとを管理し、線路は北に延び、昭和4年5月27日には下板橋まで開通。
戦時中、軍需工場の通勤用に昭和19年10月5日に、志村坂上まで延長される。
なお、大正12年には、駒込車庫を分車庫として開設したので、飛鳥山線系統は駒込車庫にゆだねられた。
昭和初期の5年までは、『24』番下板橋〜巣鴨〜神保町〜日比谷間の1系統を管理、翌6年『24』番から『18』番となる。
昭和19年には、『18』番志村坂上〜神田橋と、『19』番巣鴨車庫前〜西銀座の2系統を管理する。
戦後は、『35』番、巣鴨〜田村町1丁目(西新橋1丁目)、『18』番、志村坂上〜神田橋、『41』番、志村橋〜巣鴨車庫前の3系統を管理した。
『41』番は41年5月29日、『18』番は42年9月1日から廃止となり、『35』番は43年2月25日から巣鴨車庫と共に廃止された。