39系統(早稲田―厩橋)








総距離7.193km

早稲田-早稲田車庫-関口町-鶴巻町-江戸川橋-石切橋-東五軒町-大曲-伝通院
-富坂2丁目-春日町-真砂町-本郷3丁目-春木町-天神下-広小路-御徒町3丁目
-西町-竹町-小島町-三筋町-桂町-厩橋

開通 T 7. 6 

廃止 S43. 9

 厩橋から御徒町3丁目までの7停留所のうち6停留所名がS36→S45の間に変わっています。上野広小路は8本の系統の都電が交差していて、都内最高の都電集結地点でした。8路線が集まる地点はもう1ヶ所ありましたがどこでしょう?

本郷切通し坂の連合渡御

 本郷台の東を下る切通坂は、丁寧に積み上げた石の坂であった。長四角の花崗岩を規則正しく敷き並べ、両脇の車道は波模様になるように、小さな四角の石を組み合わせ、こちら側湯島天神と、向う側岩崎邸の亀甲形の崖石を積み上げた、贅沢な手作りの坂だった。
 そこを通る『16』番、『39』番が、車輪の響きがあたりの静寂の中に吸い込まれて行った。買物姿が印象に残る。
 待ち遠しかった花見も終わると、青葉薫る5月が間もない。春風に乗って「ぴいひゃらら」と祭り囃子が聞えてくると、もう落ち着かない連中が町のあっちにもこっちにもいる。秋から冬の間は、茶髪や七三にきちんと分けた長髪の若者も、何時の間にか祭りに合わせて角刈りに仕上げている。下町には樽型の面長の若衆がいて、角刈りがよく似合うから不思議だ。
 東京の祭の魁は、5月3、4、5日の鉄砲州様、次が下谷神社と神田明神、その次が17、18日頃の浅草三社祭、入谷の小野照様、25日頃の湯島天神祭がある。6月入ると、東向島、京島、立花の各神社、南千住天王様、品川の天王様、四谷の両社祭、蔵前の第六天様。続いて鳥越様、波除様、山王様、合羽橋、松葉町の矢先様が終わると、7月はお盆月、8月は佃の住吉様まで祭はない。
 湯島天神のお祭で、氏子各町の神輿連合渡御がある。ここの連合渡御は下廻りと上廻りとがあって、今年は上廻り。
 神社の大鳥居前を午後1時に集合出発。湯島1丁目から金助町、本郷元町、本郷3丁目、春木町を通って切通し坂を下る。あとは天神下から、同朋町そして長者町を通って流れ解散となるコースだ。ここは湯島公道会、湯島会など、都内でも知られた同好会があって、なかなか祭りのやり方は上手だ。
 「おりゃ こりゃ おりゃ こりゃ」「すいや すいや そりゃ そりゃ」いろいろな掛け声が入る。
 今、目の前を行くのは妻恋町会、次が天三こと天神町3丁目町会である。湯島は文京区にあるのに、半分は山の手、半分は下町だ。芸大の周囲の上野桜木町は台東区なのに下町という人はいないだろう。文京区でも根津や天神下は完全に下町だし、台東区でも上野桜木町や谷中町を、江戸的であっても下町というのはおかしい。だから区の名前だけで区別できないものがある。16番の電車は、ゆっくりゆくり切通し坂を上がっている。
 『地理教育 東京電車唱歌』にうたわれているように、東京市街鉄道線が、明治37年11月8日に本郷3丁目〜上野間に電車を延長させて切通し坂を下る。当初は、須田町を振り出しで、本郷、上野行が通る。
 明治末期には、三田〜本郷〜本所行という方向板の電車も通過する。
 大正3年には、5番外手町〜大塚ステーション前と江戸川橋とが切通し坂を通った。
 昭和に入って5年までは、20番早稲田〜春日町〜外手町、大塚〜上野広小路〜外手町が通る。翌6年には、前者が15番、後者が17番と、番号が変更される。
 戦後は、39番が早稲田〜厩橋と、16番が大塚駅〜錦糸町駅とがここを通る。
 39番は昭和43年9月29日、16番は昭和46年3月18日から廃止となる。

湯島切通坂上

 本郷3丁目から上野広小路に下る湯島の切通坂にさしかかるところ、右手の石鳥居は今も立っている。菅公御遷座1000年祭の明治35年に建てられた、湯島天神の参道入り口の鳥居である。
 左側の森は三菱の岩崎邸で右の森は湯島天神の境内である。今際路線工事中なのであろうか、敷石を積み上げている。
 この景観、今やマンションやホテルが林立して一変してしまった。

JR御徒町駅前

JR御徒町駅ホームから、上野広小路、湯島切通坂方面の夜景である。わざわざ撮影に赴いたのではなく、ホームで電車を待つ間に軽い気持ちで撮ったものである。
 左側の大きな建物は上野松坂屋、右手はアメ横への入口、その先にBOOKSの看板のあるのは上野明堂書店である。
 『39』番の電車は、ガードをくぐり、御徒町3丁目から厩橋西詰まで行く。

曲線美の厩橋

 大正末期から昭和初期にかけて架けられた隅田川の橋は、東京市の大傑作で、一つ一つの橋のテーマがそれぞれの個性をで出すように出来ていて、さながら橋の展示場である。
 「橋上にいる者は橋を見ず」ということになるのだろうが、一つ川上の駒形橋から眺める厩橋の姿は美しい。柔らかい曲線を描いた三つのアーチが厩橋のテーマである。永代橋の大アーチ橋が雄大な男性美ならば、こちらの方はソフトな女性美といえそうだ。
 橋の西北に幕府の厩舎があったので、ここにあった渡しを「おんまやの渡し」といっていた。明治になって木橋が架けられてからも「おんまやばし」とか「おんまいばし」と呼ばれていた。
 江戸火消しの浅草「ち組」副組頭をしていた大柳雅夫さん(大正3年生まれ)が、子供の頃から口にした言葉に、「どんどん どんがらがった おんまい橋のなんとかさんは 御飯も食べずにしんたくあん」というのがあって、なぜそんなことをいうのか、わけはわからないが、昔はよく口にしたり耳にしたということである。近くに、親に虐待されて殺された、お初地藏があることから、こんな文句が生まれたのであろうか。
 厩橋を渡る都電は、大塚駅から上野広小路を通ってきた16番の電車で、厩橋を渡って右折、石原1丁目を左折して、太平町を経て錦糸町駅まで行っていた。
 早稲田から来た39番は厩橋が終点で、厩橋の西のたもとで折返していた。
 厩橋の西詰の交差点は、西南の角が第一勧銀の厩橋支店で、赤褐色のタイル張りがなかなか美しい。北西の角には、町田と店の石造りのビルがあって、糸屋さんとしては目を見張る建物であったが、昭和56年暮れに取り壊され、新築中だった。また、厩橋を東に渡った所は、昔は外手町といったが、今は外手小学校にその名を留めている。
 明治37年2月1日東京電車鉄道線が浅草橋〜雷門間に電車を通した時に厩橋の停留場ができる。翌明治38年7月18日に、本所から厩橋を渡って小島町まで東京市街鉄道線が開通して、厩橋は交差点となる。明治末期には、品川から雷門行と、三田から本郷〜本所行きが交差していた。
 大正3年には、1番品川駅〜雷門、2番中渋谷ステーション〜築地〜浅草間、3番新宿角筈〜築地〜浅草間、5番外手町〜大塚ステーション前と江戸川橋行が厩橋を通る。
 昭和に入って5年までは、1番品川〜雷門、30番千住大橋〜蔵前片町、31番南千住〜東京駅、32番南千住〜芝橋間が南北に走り、20番早稲田〜外手町、23番外手町〜大塚駅間が東西に走り、厩橋で交差していた。
 戦後は臨時の1番三田〜雷門、22番日本橋〜南千住(新橋〜雷門)と、16番大塚駅〜錦糸町駅、39番早稲田〜厩橋が交差していた。1番は昭和42年12月10日、39番は昭和43年9月191日、6番、22番はともに昭和46年3月18日から廃止された。