17系統(池袋駅前―数寄屋橋)

 







9.795km

池袋駅前-東池袋1丁目-日ノ出町2丁目-大塚坂下-護国寺-大塚仲町-大塚窪町
-教育大学前-清水谷町-竹早町-同心町-伝通院-富坂二丁目-春日町-後楽園-水道橋
-三崎町-神保町-一ツ橋-錦町河岸-神田橋-鎌倉河岸-新常盤橋-日本銀行前-呉服橋
-八重洲口-鍛冶橋-有楽橋-数寄屋橋

S14. 4 

S44. 3

池袋駅東口

 東京の北、山手線に沿った副都心として、押しも押されぬ池袋ではあるが、この駅前まで電車が伸びたのは意外に遅く、昭和14年4月1日からである。
 終戦直後、池袋駅前に降り立つと、遠くに緑青の生えた護国寺の屋根が見えて、その間には軒の低いマーケットが続き、映画館の人生座が人目を惹いただけだった。
 今や東京一の高さを誇るサンシャインシティを控え、見違える街となった。駅前の『17』番は数寄屋橋に、日曜と祭日に限り、『20』番が上野公園経由で通3丁目まで通っていた。
 終戦直後、大塚駅から池袋、目白にかけて、焼け残った石塀という石塀に「角萬とはなんぞや?」と、墨にで大書したのを、満員すし詰めの車窓から目にしたのをご記憶の方は多いはず。これは、終戦後の焼け跡に鮮烈に刻まれた広告で、大塚駅北口にある結婚式場角萬のグッドアイディアであった。
 池袋駅を東口に降り立つと焼け跡に並んだ一大マーケット街が続き、空腹を抱えて、ぐるぐる歩き回った。マーケットの南口、作家三角寛の経営する人生坐があった。「人の世に坐する」という意味だ。懐かしい戦前の映画を見せてくれた。昭和22年2月の新聞に「池袋駅附近のサンドイッチマン」の見出しで、待合、古物商等の案内広告を両肩かけて、1日6時間で月2,000円の収入とある。
 池袋駅の東寄りのガードを潜ると、赤線青線の紅灯街が我々を招いていた。ガードは浮浪者や傷痍軍人たちが坐り込んで、臭気はただならぬものがあった。人呼んで「小便ガード」。左の方のガードは「ビックリガード」。何でも近在農家の馬車が野菜を積んでガードを潜ろうとした時、上を走る電車の音にびっくり驚天して、馬が暴れ出したことから名が付いたという説もある。
 都電『17』番系統と臨時の『20』番系統の他に、トロリーバスの(102)系統と(103)系統も池袋駅前に集まってきていた。駅前終点らしくX字型のポイントを持っていた。

 
戦前の池袋は西口が賑った。今、ときわ通りを訪ね歩いても、かなり古い店がある。その繁栄を助けたのが、駅西側に明治時代末から集中した学校群であった。東口は閑散としていた。明治28年(1895)石川島から移設された巣鴨監獄(現、サンシャイン60の場所)が、名称は変えながらも昭和46年まで存在し、暗いイメージが付きまとったせいもあろう。

 日の出通りと呼ばれた護国寺に至る道は、昭和7年に開かれたものの、完成をみたのは戦災復興事業による。この道を市電が走り出したのは昭和14年と遅かった(昭和43年廃止)。

 
こんな通りに面して、戦後トタン屋根の人生座があり、芸能界初といわれるストライキをやった。結局、人生座は解散したと記憶するが、その跡に昭和40年常陽銀行のビルが建った。現在この裏に、「人生横丁」称して飲屋の密集地がある。東口が若者で賑うようになったのは、パルコやウエーブ、東急ハンズ、サンシャイン60の影響が大きい。今では日の出通りも、見事な並木の「グリーン大通り」と名を変え活況を見せている。

 敗戦後の大規模な闇市は、都内ではブクロ(池袋)、ノガミ(上野)、ラクチョウ(有楽町)、バシン(新橋)、ブヤ(渋谷)であった。そこは、パンパンと呼ばれる街娼の溜まり場でもあった。働こうにも職がなく、占領軍兵士相手に体を売って子を養い、生きる事に精一杯の女性が、6大都市だけで4万人といわれた。記録によると昭和21年には、主食の配給が25日も遅れ、京浜地区で毎日平均9人の餓死者が出た。生きる為に手段を選ぶ余裕などなかった時代である。

 物の持ちは物々交換で命をつないだが、引揚げ者社や空襲で住む家も持ち物も焼かれた多くの市民は、危険を冒しても飢えと戦わねばならなかった。その必要が、自然に駅前の焼跡広場に、治外法権的な闇市を成立させたわけである。

 昭和23年には、111種類の商品の公定価格が廃止されたが、物不足で闇値がまかり通り、公定価格の意味がないのが実情であった。昭和26年12月に露天整理令が公布されて、道端の露店は消えたが、闇市はしたたかに存続した。

 駅前バラックが強制的に撤去されたのは、昭和30年の土地区画整理法の適用であったが、この池袋のように昭和36年まで残った所もある。それも東京オリンピック開催までに東京を美しい街にするためのぎりぎりの期限であった。

 池袋駅西口は再開発が進み面目一新した。この。撮影地点は新道と公園に生まれ変わり、平成2年秋には、都立東京芸術劇場が建てられた

 池袋駅を中心に立教大学上空から見た風景である。昭和36年西口のマーケットはなくなり、遅れながらも戦災復興事業が進んで新道できた。目を引く駅西口の建物で、白いビルは駅舎を兼ねた東横百貨店、昭和39年6月には、東武鉄道に譲渡された。そうして昭和46年には建て替えられた。その右の変形ビルは、東武鉄道東上線の起点駅を兼ねた東武百貨点で、昭和37年に竣工した。ちなみに、東武鉄道東上線の開通は大正3年(1914)である。

 
プラットホームを挟んで東口のビルは、左が昭和33年進出の丸物百貨店。昭和44年には池袋パルコに代わった。中央が西武百貨点が入っている民衆駅ビルで、昭和28年開業。右に連なる西武池袋駅ビルは、昭和33年に完成した。西武鉄道の前身・武蔵野鉄道の開通は大正4年(1915)である。

 駅上方遠く幾棟も並ぶ建物は、巣鴨刑務所。敗戦直後接収されて、「スガモプリスン」となり、A、B級戦犯60人が露と消えた場所である。その悲劇の地に、昭和52年高さ240mの超高層ビル『サンシャイン60」が建った。

日の出町の「分庫」

 数寄屋橋から折返して来た『17』番の電車は、護国寺の山門の前を通り、大きく右にカーブしながら坂を上がって坂下町停留所に着く。「坂上にあっても坂下町とはいかに」である。
 坂下町は、坂の下から上まで同じ町内だから番地が多い。その坂上の坂下町の停留所を過ぎるともう遠くの突き当たりには、JR池袋駅と西武デパートが望める。その途中で、左右に電車線が横切っている所が日の出町2丁目である。左右の電車は旧王電の『32』番荒川車庫〜早稲田間である。不思議なことに、その左の方に電車の引込み線があって、『17』番の電車が1,2台休んでいる。ここは車庫でもないし、分車庫でもない。都バスの操車場みたいなものであろう。『17』番が所属する大塚車庫は、『16』番の路線の脇にあって、この『17』番のレールからは直接は入れない。大塚仲町(大塚丁目)でポイントを変えてからでないと入庫できないのである。この日の出町2丁目は、いわばピットインみたいなもので、ここで運転手や車掌はご飯を食べたり小休止するのだろうと思った。都電の沿線では珍し光景だ
 話しは余談だが、いよいよ都電の廃止案が決まった時、私は友人達と、貸し切り電車で都内を一周しようと計画を練った一筆書き風に一体どの位の長距離を乗れるかの案を幾つかひねくり出した。次ぎは、その一つだ。
「荒川車庫から発進〜飛鳥山〜早稲田〜大曲〜伝通院〜本郷3丁目〜上野広小路〜厩橋1丁目〜森下町〜月島=築地〜銀座4丁目〜日比谷公園〜桜田門〜飯倉1丁目〜六本木〜北青山1丁目〜四谷3丁目〜四谷見附〜九段上〜小川町〜日比谷公園〜芝園橋〜古川橋〜天現寺橋〜霞町〜北青山1丁目〜四谷3丁目〜四谷見附〜半蔵門〜日比谷公園〜築地〜茅場町〜住吉丁目〜錦糸堀〜須田町〜九段下〜飯田橋〜早稲田〜荒川車庫」以上で無事ご帰還というわけである。この日の出町は行と返りで2度通ることになる。
 ここはもと日の出町といった。都電の前身の王子電気軌道会社線が、昭和7年1月17日に大塚〜早稲田間に電車を通した時に始まる。一方、護国寺前から池袋駅前へは昭和14年4月1日に開通して、ここが交差点となった。『21』番、池袋駅〜春日町〜東京駅東口(八重洲口)が通った。この車庫は大塚車庫のため、大塚仲町(大塚丁目)でいちいち、スイッチ・バックしないと入庫できないので、恐らく日の出町に派出所を作ったものと考えられる。この派出所へは王電側からは入れなかった。開設年月日は不詳である。昭和17年2月1日に王子電車は東京市に吸収され、『32』番、王子駅前〜早稲田となる。
 戦後は、『17』番、池袋駅〜数寄屋橋と『32』番、荒川車庫〜早稲田となった。『17』番は、昭和43年3月31日に数寄屋橋から文京区役所前(春日町)までに短縮の後、昭和44年10月26日から廃止となった。『32』番は昭和47年11月12日から、『27』番の王子駅〜赤羽間が廃止に伴い、一本化して三ノ輪橋〜早稲田間となって荒川線と呼称された。昭和53年4月1日からは全車ワンマンカーとなっている。

護国寺前の富士見坂

 江戸っ子はよほど富士山が好きだと見えて、江戸時代から富士見坂と呼ばれている坂は、都内だけで15以上にもなる。しかし今では空気が汚染したり、ビルが増えて富士が拝めない所が多い。実際に望見出きるのは、2、3箇所しかないらしい。
 小日向・小石川台地の大塚仲町から西へ下る長丁場の富士見坂も、ご多分にもれず富士は眺められないが、20年間の歳月の隔たりを感じさせないのは、護国寺と、都島岡墓地の緑の空間があるためである。本年2月に高松宮のご葬儀が行われたので、都民の多くは、豊島岡墓地の存在を再確認したことだろう。
 この富士見坂の周辺の、大塚仲町、大塚坂下町、青柳町、東青柳町、音羽に各町は、戦災を受けなかった。大正の大震災にも無傷だったから、実に古色蒼然たる日本家屋が残っていた。しかし、坂下に地下鉄有楽線の護国寺駅があるので、年々マンションや貸しビルが増えて、屋根が高くなりつつある。この坂下辺りは、昔の弦巻川があったところが暗渠になっていて、たどりながら歩くと、湧水や井戸があり、意外な東京を発見できる。やはり電車の敷石の階律が、坂に一つの風趣を添えていた。

都電のメッカ春日町

 ペルリが来訪した寛永6年の「江戸切絵図」を見ると、水戸家の上屋敷は、とてつもなく広くて、現在の後楽園すべてと、講道館、文京区役所、礫川公園、戦没者霊苑の丘を含めた範囲である。後楽園球場の西には、昭和25年から発足した競輪場はまだかけらもないことが空からの写真で解る。
 春日町交差点は、三角地帯の真ん中に信号塔が建ち、南方から来る『2』番、『18』番、『35』番と『17』番と分かち、西方からの『16』番、『39』番と『17』番とを分かつのせ、結構忙しいポイントマンだった。背後の古ビルは東京都の変電所で、電車を動かす電流を管理していた所である。交差点内のスペースというのは結構広くて、歩行者天国にでもなれば、ちょっとした球戯なら出来そうだ。
 激変した街の中を『17』番の、代替バス池「67」系統・『18』番が、水「57」系統に、『39』番が、上「69」系統に、そして『16』番の代わりには、デラックス路線バスのグリーンシャトル都「02」系統が走り抜ける。背後の変電所変じて都営住宅となる。今はここを文京区役所前という。下を走る都営地下鉄三田線の駅名は春日である。春日通りと白山通りの交差点。春日町は変形交差点で、三角形に線路が交差している。

拡幅の波、春日通り(昔、小石川同心町)

 春日通りを北へ行く道を、江戸中期の「江戸大絵図」では、川越道と記されているものもある。小日向・小石川台地の尾根に通じた道で、台地上の平らな部分は50メートルに満たない場所もあリ、歩いていると馬の背を行く感じになる。大空襲で辺りが焼け野原となると、土地というものは今まで気がつかなかったが、起伏のある事が目で確認できて、今更ながら驚いたものである。
 煉瓦造りの建物は、2等郵便局(集配局)の小石川郵便局である。日本橋局、京橋局、下谷局などと並んで、戦前の逓信省時代の所産で、屋根の低かった街の中で大いに目立った存在だった。駅舎にしても郵便局にしても、戦前の建物の方が重厚で、人々からも親しまれてきた。お金をかけてまで新しい建物にして、果たして使いやすくなったり、街の風物詩として、我々が誇りにする事が出来るだろうか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
 春日通りは、現在、本郷3丁目から西へ拡幅が進行中で、取分け、伝通院附近はマンションラッシュで、平均階数8〜9階になっている。小石川郵便局も、来るべき拡幅を予定して、左手奥に引っ込んで建てられている。


娯楽のセンター後楽園

 
全国に有名な後楽園は、野球場、遊園地としての後楽園かも知れないが、本来の後楽園は、その背後にある水戸家上屋敷の庭園の名前である。
 寛永6年(1629年)に徳川頼房が起工した回遊式庭園で、明暦の大火で全焼したが、その後、光圀公が明朝の臣、朱舜水(しゅしゅんすい)の意見を取り入れて寛文9年(1669年)ごろに完成させた。殊に全国から採り集めた敷石が見事で、春に秋に訪れる者を幽邊の境に導く。
 「後楽」とは、茫仲淹の『岳陽楼記』の中の、「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から来ている。為政者たる者斯くあるべきで、今日の為政者には耳のいたい言葉であろう。
 現在遊園地になっているところは、明治4年6月にできた砲兵工廠の跡で、この辺りの工事の時には、掘っても掘っても美しい赤煉瓦が出てきて、その広大な規模を忍ぶことができた。明治の頃、開成から陸軍工科学校を出て、砲兵工廠で機関銃の技術者として働いていた。これが昭和になって、板橋の造兵廠に移転して、昭和12年9月に野球場が完成した。当時、中国と戦争中の平日に、職業野球を見ようなんていう人は余りいなかった。小学生だった私(ゆきのわかんじん)は、学校の帰りに「ただ」で入れても貰って、ランドセルを枕に寝転がって観戦した。その中には沢村投手、三原内野手、白木投手、杉浦内野手、苅田内野手など錚々たるメンバーがいたものだ。
 それが、次第に兵隊に取られる選手も出て、服装も戦闘帽になってしまった。新宿から水天宮まで通っていた『13』番の電車は、土日には場外馬券売場へ来る人々でゴッタ返した。
 昭和48年4月にオープンした黄色いビルには、ボーリング場、スケート場と現在の場外馬券売場がある。この特別な黄色は、当時の後楽園のプロジェクト・リーダーの田辺英蔵さんが、彩色に悩んでいた時に、乗ったパンナムの機内で出たコーヒー・シュガーの色が、ちょうどあの黄色だったという。隠れた話がある。
 外濠線の東京電気鉄道会社が、明治38年5月12日に、本郷の元町から神楽坂まで通させた。外濠線は赤坂見附を起点として、循環式に外濠に沿って一周していた。飯田橋から諏訪町、小石川橋、水道橋、本郷元町、湯島5丁目、師範学校前、神田松住町と停留場が並んでいた。
 大正3年には、『9』番の電車が外濠線を走った。昭和5年までは、『18』番、角筈〜飯田橋〜万世橋と、『22』番、若松町〜お茶の水〜神田橋〜新橋間となった。翌6年には、『13』番、角筈〜飯田橋〜万世橋と改正された。
 戦後は、万世橋〜秋葉原東口間が、昭和33年4月25日に延長されて、『13』番、新宿駅〜水天宮間となった。昭和43年3月31日から岩本町までに短縮、昭和43年、昭和45年3月27日から廃止された。

水道橋の(東京歯科大学)

 この眺めは、戦前から半世紀も変わらない水道橋の交差点である。右に国電の水道橋駅、突き当たりの茶褐色の建物は「東歯」といわれる東京歯科大学で、昭和5年からここに建っている。日本橋蠣殻町で開業されている小川洋先生は、新築まもなくい校舎に通学された小川洋先生に「東歯」の小史を、お伺いした。
 そもそも東京歯科大学は、明治23年、高山紀斎が芝の伊皿子に開いた高山歯科学院にその端を発する。その後、明治35年に後継者の千葉県出身の血脇守之助が、学校を神田小川町に移し、東京歯学院と改称した。その翌年、さらに校舎を水道橋の現在地に移した。近代歯学の学校として「東歯」の名は、戦前から全国に聞え、幾多の歯科医を世に送り、その数は最多である。水道橋校舎が半世紀を越した昭和56年9月に、キャンパスを千葉県稲毛に移転してからは、この建物は大学本部と附属病院として活用されている。戦前から、お茶の水駅のそばの官立東京歯学専門学校や日本大学の歯学部、そして飯田橋駅のそばの日本歯科医専と、歯医者の学校が殆ど中央線の沿線にあることは興味深い。
 今、目の前を横切ろうとしている電車は、新宿から来た『13』番の水天宮行きで、これと交わる南北の電車は『17』番の数寄屋橋〜池袋駅間である。道路上の石畳がいかにも美しいハーモニーを保っている。
 ちょっと余談だが、水道橋駅は娯楽の殿堂「後楽園」を控え、野球、ボクシング、場外馬券売場や昭和48年4月までは競輪場があって、競技が終了すると人また人の大波に襲われる。競輪が盛んだった頃、一度に大勢の乗客が押し寄せるのは最終でレースで大穴が出た時、なかなか来ない時は銀行レース、中ぐらいのこみかたはの場合は、やはり配当も中ぐらいだと、ベテラン駅員は長年の経験で解かるという。
 水道橋駅は、関東大震災までは現在と逆にお茶の水よりにあり、お茶の水駅は逆に水道橋寄りにあった。

一ツ橋の共立講堂

 東京は人口一千万人を越すマンモス都市であるが、大勢の人々が一堂に会せる大講堂となると意外に少ない。安田講堂、大隈講堂、久保講堂、朝日講堂、読売講堂のほかに、この一ツ橋にある一橋講堂と共立講堂がある。
 神田錦町から一ツ橋にかけては、明治維新後、文部省の土地になった所が多いが、そのほかにもここを基盤として発足した学校も多い。東大、学習院、一ツ橋大、東京外語大、中央大、共立女子大などである。
 共立女子大は、明治27年、共立女子職業学校として創立され、殊にお裁縫の教育では全国に子弟が多い。共立講堂は、本来、共立学園の講堂であるが、戦前から外部に貸していたので、小学校や中学校の同窓会をここでやったことがある。京華中学の同窓会では、市川猿翁、市川中車、岩井半四郎のほかに、黒沢明、十朱久雄、斉藤達夫、金子信雄、山下敬二郎などの映画陣、そして小松耕輔、井口基成、武光徹と多士済々、自前で舞台が、何でも出きるという豪華版であった。
 神田で出ている雑誌「神田ッ子」11月号に、舞台美術家孫福剛久さんは「神田ぶらり散歩」でこう書いている。
「私の神田には市電(都電)のイメージが強いのです。神田が市電の街に思えるのは私だけでしょうか、バスや地下鉄での神田は、どうも私だけの神田ではないようです。
 <中略>さて、私がこつこつと芝居をやって来た歴史の中で、関係したことのある劇場,一ツ橋講堂と千代田公会堂、共立講堂と九段会館、特に一ツ橋講堂は新劇のメッカであり、数多く観劇し、私も幾つかの舞台を創りました。
 一ツ橋の停留場で、水道橋へ向う都電が錦町河岸から曲がってくるのを、暖かそうな学士会館の灯を見ながら待った事を今でも身体が覚えています。何故か寒い停留場が印象に深い。
 大正9年5月29日、神保町〜錦町河岸間が開通して、大塚車庫のナンバー『5』番、大塚駅〜土橋間の電車が通る。
 昭和に入って5年までは、『21』番、大塚駅〜新橋、『24』番、下板橋〜日比谷間となる翌6年の改正で『21』番は『16』番に、『24』番は『18』番に番号が変更される。
 昭和19年には、『16』番、大塚駅〜日比谷、『18』番、下板橋〜神田橋、『19』番、巣鴨車庫前〜西銀座が一ツ橋を通る。  

神田橋

 神田橋に電車が通ったのは早く、明治36年9月15日には、すでに街鉄線の緑色の電車が、三田の方から神田橋まで開通した。
 『東京地理教育 電車唱歌』明治38年刊
1・玉の宮居は丸の内     2・左に宮城おがみつつ    3・渡るも早し神田橋
  近き日比谷に集まれる     東京府庁を右に見て      錦町より小川町
  電車の道は十文字       馬場先門や和田倉門      乗換えしげき須田町や
  まず上野へと遊ばんか     大手町には内務省       昌平橋をわたりゆく
と歌われている。
 神田橋には以前、神田橋御門があった。ここを流れる川は、飯田橋から俎板(まないた)橋、一ツ橋、錦橋などの下を流れ、やがて一石橋からは日本橋川となって隅田川に注いだ。古くは平川といい、徳川氏入府前からの重要な地点であった。この川の上と下に錦町河岸、鎌倉河岸という河岸の名がついていることからも解かるように、昔から諸国の荷を、この平川を利用して陸揚げしていた。
 今でも材木屋、砂利屋、タイル屋などが、この流域に多い。また、現在は台東区元浅草1丁目(浅草七軒町)にある白鴎高校(府立第1高女)が、神田橋の西にあった。
 朝夕各2台ずつの数少ない2番三田〜東洋大学前。朝の神田橋の交差点で神田警察の交通巡査が、手信号の訓練をしていた。若い巡査のそばにベテランの巡査が立って、交通整理の要領を特訓中です。35、6年前には、こんな風景も見られたのですね。
 この神田橋の交差点は、南北の15番、25番、37番に東西の17番が交差していたほかに、2番と35番が曲がっていた。なかなか複雑な交差点で、最後まで信号塔に転轍(てんてつ)手が乗っていた。自動式ではさばき切れるものではなかった。
 緑の電車の東京市街鉄道会社線が、明治36年9月15日に数寄屋橋外から神田橋まで開通し、同年12月29日には神田橋から両国まで延長された。一方、外濠線の東京電気鉄道会社線の土橋〜御茶ノ水間が、明治37年12月8日に開通した。神田橋は街鉄と外濠線は赤坂見附を起点に外濠にそって一周した。
 大正3年には、6番巣鴨〜薩摩原(三田)、9番の外濠線が交差する。
 昭和初期5年までは、3番三田〜吾妻橋西詰、19番早稲田〜洲崎、21番大塚〜新橋、22番若松町〜新橋、24番下板橋〜日比谷、33番浅草駅〜日比谷、37番錦糸掘〜日比谷の7系統が神田橋に集まっていた。翌6年には2番三田〜浅草駅、14番早稲田〜洲崎、18番下板橋〜日比谷、29糸掘〜日比谷の4系統に整理された。
 戦後は、2番三田〜東洋大学前、18番志村坂上〜神田橋、35番巣鴨〜西新橋1丁目、37番三田〜千駄木2丁目、15番高田馬場駅〜茅場町、25番西荒川〜日比谷、17番池袋駅〜数寄屋橋の7系統がここに集中していた。昭和42年9月1日から18番、2番、37番は昭和42年12月10から、35番は43年2月25日から廃止となった。引き続いて同年3月31日に17番、25番は短縮となり、ここからの都電は消えた。



参考文献
都電百景百話